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十月三十日

 吾輩は昨夜の九時から今朝の十時まで再度あの通りを観察した。そこでは中国人共が、互いに擦れ違って歩いたりそこらに立ったりしていた。暫くする毎に車がやって来て、フアル・ミゲットの店を見ることの出来る隣のブロックの角に一時間ずつ停止していた。

 第二航海士は、丁度吾輩が引っ込む前に乗船した。吾輩は彼が九時少し過ぎに店へ入り、出るのを見ていたのだが、彼が店を出てからは、二人の中国人が通りを尾けて行くのを双眼鏡越しに追跡していた。しかし明らかに、彼が単に普通の客であることを納得して、結局連中は引き返した。

 吾輩は第二航海士に、メモを渡した時に店の中に誰かいたか訊ねた。答えはノーだった。しかし彼が杖を買っている間に、世界一どでかい中国人が突然店の後ろにある戸口から頭を突き出し、彼のことを一分近くも凝イッと見詰めたと云うことであった。

 「あいつ、頭がおかしいんじゃないかと思いたくなりましたよ」と第二航海士は吾輩に言った。「若しあいつがもう一寸小さければ、俺はあいつに何の用だと訊いてやったんですがね。だけどあんな途方もない大野獣が相手じゃあ、知らんぷりをするしかありませんよ。あいつが、膝の上にナイフを載せて後ろの応接室にいたって云うその男だと思いますか?」

 「だとしても驚かんね」と吾輩は言った。

 「思った通りだ」と第二航海士は述べた。「若し俺が船長だったら、この件からはすっかり手を引きますね。奴等中国人共ってのは、とんでもない殺人狂です。喉をかっ切ることなんて何とも思っちゃいないんだから!」

 「連中についての君の見解には賛成だな」と吾輩は言った。「しかし吾輩はこの難局を切り抜けてみせるとも」

 本日その後、吾輩は街中へ行き、そこでひとつふたつ物を揃えた。それから吾輩は衣装屋のジェルの店へ行き、そこで染料と一寸ばかり入念な顔用塗料とで以て吾輩を手直しさせた。それからまた、合いそうな服一着を貸して貰った。吾輩は今やこの奇妙な一件に関して実に大真面目に取り組んでいるのである。

 入って行った時には、吾輩は普段の吾輩であった———髪は少し明るめで、赤毛ではなかった。実際吾輩は、偏見のない者ならば赤毛と呼ぶ様な髪をしている訳では全くないのだ。吾輩の眉毛の陰影はもう少し明るく、肌は白く、赤みがかっている。吾輩は揃いの釦の付いたサージ織に身を包み、上等の帽子を被った。出て来た時には、吾輩の髪と眉毛は黒く染められていた(無論洗えば落ちる染料を使ってある)。吾輩の肌は黄褐色に近い茶色で、どの様な言葉を用いたとしてもチェスの目としか言えないチェック柄の背広を着ていた。それからクラッシュ・ハットに、ブーツにはスパッツだ。吾輩はアメリカ人が考えるところの、典型的な英国人旅行者であったのだ。哀れなる哉典型よ。誰か何とかしてやってくれ。

 吾輩は本屋に立ち寄り、 フリスコの案内書を買った。テレグラフ・ヒルや海岸通りやフェリー・ボート、湾の一瞥や「オークランドの眺め」なんかの写真でいっぱいの、底の底まで波紋を広げた、小さくて可愛いペラペラのやつだ。それに、曾ては穀物の船荷を積んだ帆船が何十隻も並んで風の出を待っていた湾を横切る泥地も忘れてはいけない。  それから吾輩は「案内」をば両手から垂らし、それを五歳のお嬢さんでであもあるかの様に凝っと見詰め乍ら、一直線に海岸通りへと進んだ。


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