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 自信を得て、彼はこの優位な立場を利用することにした。彼は、本心から彼女を慰めたいと思っているのだと言った。直ぐまた会おう。そして彼女が彼の実験に少しでも興味があるのなら、その内本当に面白いものを見せてあげよう。彼等は次の日曜に田舎で旅行する手筈を整えた。彼は密かに、通過する車に使った例の芸当を、彼女の為にもう一度やろうと心に決めた。

 日曜は明るい夏の日だった。空の客車に一緒に座り乍ら、二人は彼女の兄について沢山のことを話した。彼は寧ろ退屈していたのだが、熱心に同情を表明した。彼女は、彼にその様な温かい心があるとは思ってもみなかったと言った。彼は彼女の腕を取った。彼等の顔が近くなり、二人は互いの瞳を覗き込んだ。彼女はこのおかしな、少年らしくはあるが可成りグロテスクな顔に抗い難い優しさを感じ、その間、子供っぽい無邪気さが、力を持った大人の意識と融合したのだと自分に言い聞かせた。彼女はその底に横たわる残酷さを感じ取ったが、それを受け入れた。ジムの方では、彼女がとても魅力的であることを認識しつつあった。彼女の顔に、健康の暖かい輝きが戻って来た。(或いはそれは、愛の輝きだったのだろうか?) 豊かな甘い唇が、優しく明敏な灰色の目が、肉体的な欲望だけでなく、彼にとっては新しいものであった、うっとりとする様な柔和さで彼を満たした。罪の記憶と現在の欺瞞とが彼を苦しめた。彼の顔に惨めさが浮かび上がった。彼は彼女の腕を放し、身を屈めて頭を両手の中に埋めた。当惑し、哀れみを感じ、彼女は腕を彼の肩に回して、その髪に口付けた。突然、彼は泣き出して、頭を彼女の胸に載せた。彼女は彼を抱き締めて、彼が自分の子供であるかの様に、囁き声で歌い掛けた。彼女は一体どうしたのか言って欲しいと彼に請うたが、彼には泣きじゃくることしか出来なかった。「ああ、僕って奴は恐ろしい! 僕は君に相応しくない」

 それでもその日後になってから、彼は大層元気を取り戻し、二人は腕を絡めて森の中を歩いて行った。彼は車の一件で締め括られる自分の最近の成功について彼女に話した。彼女は感銘を受け、面白がったが、単に自分の力を試すためだけに命に関わる事故を起こしてみせるその無責任さに、道徳的にショックを受けた。同時に彼女は、そこまで彼を駆り立てた熱狂に、明らかに魅了されてもいた。彼は彼女が興味を持ってくれたことで調子に乗り、その優しさと肉体的な近さとに有頂天になっていた。と言うのも彼等は今、彼が車で試した芸当を行う積もりであった例の小山の上で休んでいたのだった。彼は頭を彼女の膝に埋め、自分の人生が取り逃して来た愛の全てがそこに集められているかの様な彼女を顔を見上げていた。彼は自分が、恋人と云うよりも乳児の役を演じていることに気が付いた。だが彼女は彼にそうして欲しい様に見えたし、彼は自分の役割に満足していた。けれども直ぐに性的な欲望と、それと共に男性的な自尊心が自己主張を始めて来た。彼は、自分の並外れた力を誇示することによって、自身の神の如き本質を立証してやりたいと云う抑え難い渇望を抱いた。彼は愛する者の前ではあらゆる敵を殺さねばねばらない原始的な野蛮人になった。

 はためくヘレンの髪を通して見上げると、小さい物体が動いてるのが見えた。一瞬、彼は(ぶよ )かと思ったが、やがて遠くからこちらに近づいて来る飛行機であることが判った。

 「あの飛行機を見てて」と彼は言った。彼女は彼の声の険しさにびっくりした。彼女は上を見て、それからまた彼を見下ろした。彼の顔は懸命に歪んでいた。彼の目は爛々と輝き、鼻孔が膨らんでいた。彼女は彼を放り出したいと云う衝動に駆られた。彼は余りにも残忍に見えた。だが魅力の方が勝利した。「飛行機から目を離さないで」彼は命じた。彼女は上を見て、下を見て、また上を見た。彼女は、自分がこの極悪非道の魔法を破るべきなのだと自覚していた。(そこには道徳と呼ばれる何かがあったのだが、しかし恐らくは幻影だったのだ。)魅力が勝利を収めていたのだ。

 やがて、前進を続ける飛行機の四つのエンジンがぐずり始め、ひとつひとつ発火を止めて行った。飛行機は暫く滑空したが、直ぐに操縦不能なことが明瞭になった。それは揺れ、よろめき、それから螺旋を描いて急降下した。ヘレンは悲鳴を上げたが、何もしなかった。飛行機は遠くの森の向こうへと消えて行った。数秒後、くぐもった衝突音があって、森の向こうから煙が、傾いた黒い柱と成って立ち昇り始めた。

 ジムはヘレンの膝からの立ち上がって振り返り、彼女を後ろの地面へと押し倒した。「これが僕の愛し方さ」と彼は猛然とした口調で囁いた。それから荒々しく彼女の唇に、首に口付けた。

 彼女は激然とした努力を払って気を鎮め、この異常者の前に我が身を抛ちたいと云う衝動に抵抗した。彼女は彼の手から逃れようと藻掻いた。そしてやがて二人は喘ぎ乍ら互いに立って対峙した。「狂ってるわ」彼女は叫んだ。「自分が何をしたか考えてごらんなさい!  貴方は、自分がどれだけ頭がいいかってことを見せる為だけに人を殺したのよ。それなのに私を愛してるですって」 彼女は両手で顔を覆って啜り泣いた。


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