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* * *


 ジムは今やガールフレンドを感銘させる準備が整ったものと感じた。駒鳥を殺して以来、二人は時折会っていたのだが、彼は彼なりのぎこちなく青臭い遣り方で、彼女に求愛を試みていた。彼女は毎回彼をがっかりさせた。だが駒鳥事件以来、彼女は明らかに、より彼に興味を持つ様になっていた。彼女は時々彼を軽蔑する振りをしたものの、彼は、彼女が密かに心惹かれているのだと感じた。

 ところが或る日、彼は不愉快な驚きに見舞われることになった。彼は仕事場から家まで帰る為にバスに乗った。彼は階段を登って座席に身を沈めた。急に彼は、ヘレンが幾つか先の席に、スポーツコートを着た巻き毛の若い男と座っているのに気が付いた。二人は互いに頭を預け合って、会話に没頭していた。彼女の髪が男の頬を撫でた。やがて彼女は、ジムがついぞ聞いたことの無い、幸せそうな響きのする笑い声を響かせた。彼女は顔を連れの方へ向けた。それは活気と愛とで赤く輝いていた。少なくとも、三つ後ろの席の嫉妬深い恋人にとってはそう見えた。

 理屈にならない激情が押し寄せて来た。彼は少女と云うものについて余りにも無知で、しかも「彼の彼女」(少なくとも彼はそう見做していた)は別の男の方を気に掛けるべきであるのにと憤慨していたので、嫉妬が完全に彼に取り憑き、他の一切の事柄を排斥した。彼には、ライヴァルを滅ぼすこと以外の何も考えられなかった。凝然たる彼の視線が、彼の前の憎らしい首の項に飛び付いた。彼は夢中で、隠された脊椎骨と囲まれた神経繊維の束のイメージを思い浮かべた。神経電流が停止するんだ。停止、停止するんだ。やがて巻き毛の頭がヘレンの肩に沈み、それから全身が前へつんのめって落ちた。

 殺人者は大急ぎで自分の席から立ち上がり、持ち上がった騒ぎに背を向けた。彼はまるで災厄に気が付かないかの様にバスを去った。

 徒歩で道程 (みちのり )を続け乍らも、彼はまだ非常に興奮していたので、勝利の歓喜以外のことは全く頭に無かった。だが次第に熱狂も収まり、彼は、自分が殺人者であると云う事実に直面することになった。彼は慌てて、罪の意識を感じるなど結局は無意味なのだ、道徳などと云うものは単なる迷信なのだからと自分に言い聞かせた。だがしかし、彼は正に罪の意識を、恐るべき罪の意識を感じていた。彼には捕まる怖れが全く無かったのだから尚更だった。

 日が経つにつれ、ジムは彼が「非合理的」と見做す罪の意識と勝利の陶酔との間を行き来した。世界は正に彼の足下に(ひれ )伏した。だが彼は慎重に事を進めなければならなかった。残念なことに、罪の意識は彼に平和を与えてはくれなかった。彼はまともと眠ることが出来なかった。そして眠れた時には恐ろしい夢を見た。日中彼の実験は、自分の魂を悪魔に売ってしまったと云う幻想によって妨げられた。この発想は実にその馬鹿ばかしさによって彼を激怒させた。だが彼にはそれを取り除くことは出来なかった。彼は大いに飲む様になった。しかし直ぐにアルコールが念力の力を減退させることが判ったので、彼はその習慣をきっぱりと止めた。

 他に彼を執拗な罪の意識から救ってくれるものとしてはセックスが考えられた。だがどうにも彼はヘレンと面と向き合う気にはなれなかった。彼は訳が分からない儘彼女を怖れていた。しかし彼女は、彼が彼女の恋人を殺したのだと云うことは全く知らない筈なのだ。

 やっとのことで、彼は偶然通りで彼女と出会った。彼女を避けることは出来そうになかった。彼女は可成り顔色が悪い様だと彼は思ったが、彼女は彼に微笑み掛け、実際のところ、コーヒーでも飲み乍ら話をしないかと持ち掛けて来た。彼は怖れと欲望との間で引き裂かれたが、やがて彼等はカフェの席に腰を降ろした。幾つかの詰まらない話の後で、彼女は言った。

 「私を慰めてくれない! 私、極く最近に酷いショックを受けたものだから。私、三年間アフリカに居た兄とバスの前の方に居たのよ。私達が話している最中に、兄が倒れて、その殆ど直後に亡くなったの。どう見ても健康そのものだったのに。脊髄の中の何か新しいウイルスだったらしいんだけど」彼女はジムの顔から死んだ様に血の気が引いていることに気が付いた。「どうしたの?」彼女は叫んだ。「貴方まで私の目の前で死のうって云うの?」

 彼は気持ちを落ち着けて、余りにも彼女に同情してしまったが為に気が遠くなりそうになったのだと請け合った。彼は彼女のことをそれ程愛していたのだ。彼女の不運に動揺してしまったとしても仕方が無いではないか? 安心したことに、ヘレンはこの説明にを鵜呑みにした。彼女は初めて、ジムが以前兄に向けられていたのを見た、あの輝く様な微笑を彼に向けたのだった。


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