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 こうして私は、時折停止しつつ、千年かそれ以上の大跨ぎで、地球の運命の深秘に惹きつけられて、西方の空の太陽が次第に大きく鈍くなってゆき、古い地球の生命が衰退するのを、奇妙な陶酔と共に観察し乍ら、旅を続けた。到頭、今から三千万年以上先では、巨魁な赤熱のドームと化した太陽は、薄暗い空の十分の一近くを覆い隠すまでになっていた。それから私は、這い廻る蟹の大群が姿を消していた様だったのでもう一度止まってみたのだが、赤い浜辺には、鉛緑色の銭苔や地衣類を除けば、生命の徴候はなかった。見ると白い斑点が付いていた。無情な寒さが私を攻め立てた。希薄な白片が時折、回転し乍ら落ちて来た。北東の方角では、黒色の空の星明かりの下で雪が煌めいており、小丘の頂上の起伏が桃色がかった白に見えた。海の端沿いには氷の縁取りがあって、沖合いの方では塊が漂っていた。しかし塩の海の大部分は永遠の日没の下ですっかり血の色に染まっており、まだ凍ってはいなかった。

 私は、何か動物生命の痕跡が残ってはいないかと辺りを見回した。或る漠然とした不安を感じたので、機械の鞍からは離れなかった。地上にも空にも海にも、動くものは何も見えなかった。岩の上の緑のネバネバだけが、生命が絶滅してしまった訳ではないことを証していた。浅い砂州が海の中に姿を見せており、水は浜辺から退いていた。何か黒い物体がこの岸辺の上をバタバタと動き廻っているのを見た様な気がしたが、しかし見ている裡にそれは動かなくなったので、私はそれが目の錯覚で、その黒い物体は唯の岩だったのだと判断した。空に架かる星々は激しく輝いており、私には殆ど瞬いていない様に見えた。

 突然、私は西方にある太陽の円い輪郭が変化していることに気が付いた。曲線の中に陥没部が、入り江が現れていたのだ。これが次第に大きくなるのが見えた。恐らく一分程の間、この黒みが陽の上に忍び寄って行くのを、私は愕然として見詰めていたのだが、その後で日蝕が始まっているのだと悟った。月か水星が、太陽の円盤の上を通り過ぎているところだったのだ。当然乍ら、私はそれが月だと最初は思ったのだが、私が本当に見たのは内惑星が地球に非常に近い所を通過してゆくところだったのではと思わせる要素が多分にあった。

 闇が急に広がった。西から冷たい風が新たな突風となって吹き始め、大気中を降り注いで来る白い薄片の量が多くなった。海の端からはザワザワとさざめきが聞こえて来た。これら生命なき音がするより他、世界は沈黙していた。沈黙? この静けさを伝えるのは容易なことではない。人の立てる全ての音、羊の鳴き声、鳥の叫び声、昆虫の羽音、我々の生活の背景を成すざわめき——それら全てが消え去っていたのだ。闇が深くなるにつれて、回転する薄片はより豊富になり、私の目の前で踊っていた。大気の冷たさも更に厳しいものとなった。そして到頭、遠くの丘の白い頂が、ひとつひとつ、急速に、次々と、闇の中へと消えて行った。微風は唸り上げる風となった。日蝕の中央にある黒い影が私の方へ向かって押し寄せて来るのが見えた。次の瞬間、目に見えるものと云ったら、青褪めた星々だけだった。他のものは全て光線を失い不明瞭となった。空が絶対の闇に包まれた。

 この大いなる暗黒の恐怖が私を捕えた。寒さが骨の髄まで染み通り、息をすると痛みが走った。私は身震いしたが、酷いむかつきがした。それから、まるで赤熱する弓の様に太陽の端が空に姿を現した。私は気分を回復させようと機械から降りた。目眩がして、帰還の旅に向かうのは無理な様な気がした。混乱して気分の悪い儘立ち尽くしていると、再び、砂州の上で動くものが見えた——それが動くものだと云うことは今や間違え様がなかった——海の赤い水を背景にしているのだ。それは円い物体で、恐らくはフットボール位か或いはそれ以上の大きさをしており、触手を垂らしていた。それから気を失いそうな感覚がした。しかし、あの遠く離れた凄まじい薄明の中で無防備に横になることの非道い恐ろしさを思い、私は鞍に攀じ登った。


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