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 私は極く静かに停止して時間機の上に座り、辺りを見回した。空はもう青くはなかった。北東の方角は墨を流した様に黒く、その暗黒の中を貫いて青褪めた白い星々が明るくしっかりと輝いていた。頭上は深い赤褐色で星はなく、南東の方角は燃え上がる緋色に明るくなっており、其処に動きを止めた赤い太陽の巨体が、地平線に切り取られて横たわっていた。私の周囲にある岩々はザラザラした赤っぽい色をしており、最初に目にすることの出来た生命の痕跡と云えば、南東の面にある突き出した箇所をすっかり覆っていたきつい緑色の植物だけだった。それは森の苔や洞窟の中の地衣類に見られるものと同じ、目も鮮やかな緑色をしていた。これらの様な植物は四六時中薄暗い所で育つものだ。

 機械は傾斜した浜辺の上に停まっていた。海は南西に広がり、生気のない空を背にしてくっきりと輝く水平線へと盛り上がっていた。一筋の風さえそよいでいなかったので、其処には波砕けもなければ波立ちもなかった。唯僅かに油じみたうねりがまるで静かに息衝く様に上下しており、その永遠の海がまだ動き、生きていることを示していた。時折水が砕けるその端の方に沿って、厚い塩の外被が覆っていた——どぎつい空の下では桃色に見えた。頭の中に何か圧迫してくる様な感じがあったのだが、私は自分の呼吸が非常に速くなっていることに気が付いた。この感覚は私の唯一回の山登りの経験を思い出させたのだが、其処から私は、大気が今よりももっと希薄なのだと判断を下した。

 荒涼とした斜面の遙か向こうで耳障りな叫び声がするのが聞こえ、巨大な白い蝶の様なものが傾き乍ら空へとはためき、旋回しつつ向こう側にある低い小丘を越えて消えるのが見えた。その声の出す音が気味の悪いものだった為、私は身震いしてより一層しっかりと機械の上に座るようにした。再び周囲を見渡すと、極く近くで、赤っぽい岩の塊だと思っていたものが、私の方へ向かってゆっくりと動いて来るのが見えた。それから私は見た、その物体が本当は化け物じみた蟹の様な生き物であったのを。諸君には想像出来るだろうか、彼処のテーブルと同じ位の大きさをした蟹が、多数の肢をゆっくりと覚束なげに動かし、大きな爪をブラブラさせ乍ら、荷馬車屋の鞭の様に長い触角でユラユラと探りつつ、その金属的な前頭部のどちらの側にも付いている有柄眼を諸君に煌めかせている様を? その背中は波打って見苦しい瘤で飾り立てられており、あちこちに緑っぽい付着物が染みを作っていた。複雑な形をした口に付いている多数の鬚が、動く度にゆらめいたり探ったりしているのが見えた。

 この凶々しい妖魔が自分の方へ這い寄って来るのを見詰めていると、私は頬に、まるで蠅が其処に停まった様なムズムズする感じを覚えた。私は手でそれを払いのけようとしたが、直ぐにそれは戻って来て、その殆ど直後に、耳の辺りにも同じものを感じた。それをひっぱたいてみると、何か糸の様なものが捕まった。それは素早く私の手の中から逃れ出た。恐ろしい胸騒ぎを感じて振り向いてみると、私が掴んだのは丁度私の後ろに立っていたもう一匹のお化け蟹の触角であったのだった。その邪悪な眼はそれぞれの柄の上で蠢き、その口は物欲しげにすっかり活気づいており、藻類のドロドロで汚れ切ったその馬鹿でかい不恰好な爪は、今にも私に打ち降ろされようとしているところだった。瞬間、私は手をレヴァーに掛け、自分自身とこうした怪物共との間に一箇月の間を置いた。しかし私はまだ同じ浜辺にいて、止まると直ぐにあの連中の姿がはっきりと見えた。薄暗い光の中、葉で覆われて強烈な緑色をした岩床の間で、連中は何十となくあちこちで這い廻っている様だった。

 世界の上に漂っていたあの忌わしい荒廃の感覚を伝えることは出来ない。赤い東方の空、北方の暗黒、塩辛い〈死の海〉、ああした汚らわしいものどもが這い廻る岩だらけの浜辺、ゆっくりと動き廻る化け物共、一様に毒々しい緑色をした地衣の様な植物、肺を痛めつける薄い大気。全てが、ゾッとする効果を齎していた。私は百年進んだが、其処には同じ赤い太陽があった——少し大きく、少し鈍くなって——同じ死にかけの海、同じ冷え冷えとした大気、そして緑の雑草や赤い岩の間をうねりくねり這い廻っている同じ低俗な甲殻類。そして西方の空には、巨大な新月の様な仄白い曲線が見えた。


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