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 彼女に関して言えば、私は昨日以外の過去を持たず、また未来も持たない。しかし君、私が一番良く知っており一番愛している君に関して言うならば、私は過去の中に深い根を持ち、そして花も、未来も持っている。

 一万五千程昨日、君が棒切れの様な腕と明るい白滝の様な髪をした小さな少女だった日があった。緑の絹のフロックを着た君は扉を潜り、暖炉で手を暖め、ほんの一瞬私を見た。そして今その瞬間は、それがつい昨日のことであったかの様に、斯くも現実的に思える。 それが一万五千昨日のことだったとしても、その永遠の現実の特別な断片は、奇妙なことに、私にとって手の届く所にあるのだ。

 しかし明日はどうか?

 明日、私は計画されていた通りに、チェスターへのバスに乗るのだろうか? それとも乗り損ねてしまうのだろうか? それとも私は拒否されて、旅を始めることが出来なくなってしまうのだろうか? それとも私を乗せた後、霊柩車か巡回動物園の有蓋トラックと衝突してしまうのだろうか? 自由になったライオンや虎が通りの人々を追い駆けるのだろうか? 私は彼等の巨大な爪をこの肉体に感じ、彼等の息を嗅ぎ、少なくとも私にとっては明日は存在しないと云うことを知ることになるのだろうか? それとも何か隠れた病気が今夜私に襲い掛かろうと待ち構えているのだろうか? それとも自然の法則が突如として変化し、石が地上から跳び上がり、家々が高く聳える瓦礫と塵の柱となり、海が空へと殺到するのだろうか? それとも空そのものがカーテンの様に両側に引かれて玉座に座った神が姿を現し、神の弾劾の指先が、見下げ果てたこの私を精確に指差すことになるのだろうか? それとも明日の或る瞬間に万物が呆気なく終わりを迎えてしまうのだろうか? 単にもう何もなし、明日など全くないのだろうか?

 私はこれらの問いに確実に答えることは出来ない。これらに確実に答えられる者なぞ誰もいない。しかし若し私が一ペニーに対して、世の中が続くと云う方に百万ポンド、そしてそれらが根本的には大して変わらずに続くと云う方に五十万ポンド賭けたとしても、私を軽率だと言う者は少数の筈である。

 昨日、今では斯くも鮮明に現前し事実的であるところの出来事は、概して不可解でまだ決定されてはいなかった。そしてそれ故、昨日それらは存在してはいなかったと我々は言うのだ。だがしかし、しかし———過去が過去的にではあれ永遠に現実的であるが如くに、未来もまた、前進し続ける現在に対して少しの間未来的であるにも関わらず、永遠にそれがそうであろうところのものである、と我々が朧に感じ取る瞬間がある。我々が前進すると、霧は我々の前を後退して、現在の宇宙と連続している宇宙を明らかし、そして我々は否応なく感じ取るのであるが、常にそこにあったものが、我々を待ち受けている。何かの魔法か或いは霧の壁を貫く赤外線照明でも使わなければ、我々は、実際にそうであるところの未来の宇宙を見ることは出来ない。だからせめて我々は時として否応なく、感じ取るのだ。あの可愛らしく真面目な旅の供との会話———それは常にそこにあって、私を待ち受けており、それが今不可逆的に過去に編み込まれている様に、不可逆的に未来に編み込まれているのではないだろうか? 私が生まれた時、その旅は私を待ち受けていたのではないだろうか? 外的な因果関係と私自身の本質を成す自由選択との相互作用を通じて、あの幸福な邂逅は未来的にではあれ、既に永遠の事実の一要素ではあったのではないだろうか? それはサクソン人が初めてこの島に上陸した時も、島そのものが形を成した時も、太陽が出産した時も、等しくそうであったのではないだろうか?




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