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今日! 明日!

 今日と云う日は、無限の細部と想像もつかぬ広がりを持った現在の全宇宙から成り立っている。今日と云う日は、草原であり、家々であり、広々とした空である。今日、人間と云う生き物達は妊娠し、生まれ、愛し、憎み、死んでゆく。無数の電子達や陽子達はあらゆる所でその想像もつかぬ様な道化芝居を忙しく演じている。諸惑星は彼等の太陽に付き従う。諸銀河は漂い、回転する。

 これら全てから今日と云う日は成り立っている。そしてこれら全てと共に、あらゆる過去は、過去的な現在として、今日と云う日の中に存在している。即ち、ヴィクトリア女王、バビロン、氷河期、原始の星雲の中で凝集しつつある星々、そして想像もつかぬ様な創造力の最初の大爆発。

 しかし明日はどうか? それは貫くことの出来ぬ霧の壁であり、そこからは何物も出て来ることはない。

 我々が過去を思い出し、或いは発見する時、我々は何か、過去的にではあるが永遠にそうであるところのものに直面する。それはこれこれの仕方で存在し、他の仕方では存在しない。我々の見解は実の所間違っているのだろう、しかしそれはそれ自体に於て、今はヴェールに暗く覆われていようとも、実際にそうであったところのものなのである。布告も、万能者の布告でさえ、過去を、それが実際にそうであったところのもの、そして永遠にそうであるところのものとは別のものにすることは出来ない。神自身でさえ、若し存在するとすればだが、私が今では後悔している行いを抹消することは出来ない。

 しかし未来はどうか? それはヴェールに覆われてはいない。それは無である。それはこれから創り上げられてゆくものである。我々自身は、あの道よりもこの道を選び乍ら、それを創り上げてゆく中での自分の役割を演じてゆかなければならない。我々自身が恐らく、我々の中で立ち働いている生きた過去全体の表現でしかないとしても、しかし我々、この様に在る我々は、今日は存在していない未来の出来事の作り手達 (メイカーズ )なのだ。今日、未来の現実とは、今現在に於ては潜在している無限に多くの可能性のひとつかどれか以外の何物でもない。或いはそれは(それを知る方法などあるだろうか?)現在に於て潜在してさえいるのではなく、完全に特異で不確定なものかも知れない。

 昨日は明瞭にそこにある、私の後ろの、直ぐそこに。しかし私が一連の新しい今日に沿って進む毎に、それはより深く深く、過去の中へと遠ざかって行く。

 しかし明日はどうか?

 昨日、私は朝食にポリッジとトーストを食べた。その前の日もそうしたし、その前の日もだ。昨日、指令に従って、私はプレストン行きの列車を捉まえた。いい時間に駅に着くよう、私は計画を立てた。そして計画の千もの他の諸要素が詳細に調整された為に、予定の時刻に、見張り員の警笛と旗が振られるのとを準備して待っていた機関士は、レヴァーを動かした。列車は前方へと這って行った。その列車の中で、私は指令に従った訳でもなく、如何なる計画の結果としてでもなく、或る見知らぬ可愛らしい人の反対側に座っていた。直ぐに私達は話をしていた。お互いの瞳を覗き込み乍ら。愛について語ったのではない、看護や病院や、望まれていた計画された社会について、それから彼女のキリスト教の神について、将来の生活について、そして永遠について。私達が出会う前、私達のふたつの心がお互いから光を当て合う前、私達の会話は何処にも存在してはいなかった。しかしその後、過ぎ行く現在の中で、私達はそれを創り上げたのだ。そして今や宇宙は、過去が不可逆的にそれを確保し、予期されず、短く、決して繰り返されることのない遠ざかりつつある昨日の中に、暖かさと明るさとを保存したが故に、永遠により豊かなものとなったのだ。




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