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 だがしかし再び地獄めいた氷の匂いがして、私が〈死の悪寒〉と呼んだ悪寒が、夜の何か不可知の領域から君の所へ忍び寄って来る。君は見張り番達や、「巣」の中に居る男に声を掛け、君の足の下の寝台で、すやすやと眠っている千人もの人間達への配慮を新たにする………彼等は君に———ひとりの若者に———彼等の命を………全てを託しているのだ。彼等も、〈夜〉と〈夜の危険〉の中を壮麗且つ盲目的に驀進するこの巨大な船も全て、以前もそうであった様に、君の掌の中にある———一瞬の不注意、そうなれば一千人の死が、君の父親の息子の上に降り掛かって来るのだ! 君はよりにもよってこんな夜に夜番に立ったことを、不安の余り心臓が乾いてしまいそうになり乍ら、不思議に思うだろうか?

 四点鐘! 五点鐘! 六点鐘! これでもう後は一時間だけだ。だが君は既にもう三回も、状況によって「面舵」とか「取り舵」とか操舵士に合図を送りそうになった。しかしその度に、思い浮かべられた夜の恐怖、物憂く思わせ振りな泡の光、地獄めいた氷の匂い、〈死の悪寒〉は、その場で本当の〈災害を告げ知らせるもの〉ではないと判明したのだった。

 七点鐘! 何と云うことだ! 甘い銀の音が船首から船尾まで夜の中へ彷徨い出て、強風に巻き込まれると共に、左舷前方の直ぐ近くに何かがあるのが見える………。闇の中の海に埋もれた、何か低く横たわるものの上に輝く沸騰する燐光。君の夜間鏡はそれを睨み付けている。それから、各所の見張り番がまだ報告を出せる様になる前に、君は悟る。「何てことだ!」君の全霊が君の中で叫んでいる。「何てことだ!」だが君の人としての声は、一千の眠れる者達の生死を握る言葉を轟かせる。「取り舵いっぱい! 取り舵いっぱい!」操舵室に居る男が君の声に、そこに含まれる凄まじい激しさに跳び上がる。そして一瞬正気を失ってしまい、間違った方向へと舵輪を回してしまう。 (、、、、、、、、、、、、、、、、、、 )君はひとっ跳びして操舵室に飛び込む。ガラスが君の周りでチャリチャリ言っているが、君はその瞬間、自分が両肩にバラバラになった操舵室の扉の枠を載せていることに気が付いてはいない。君の拳が怯え切った操舵手の顎を捉え、空いた方の手は()を握り、君の方へと舵輪を猛然と回転させ、エンジンはその指定された場所へと唸りを上げる。君の後輩は既に、電信の自分の持ち場にすっ飛んで行っているし、機関室は君が操舵室に跳んで行きざまに彼に投げ付けておいた命令に応えている。だが君は………何故君は、半ば狂って、夜を貫いて凝視しているのだ、夜の強大な背景を背に、右舷船首へと揺れて逸れる化け物を見守っているのだ………。その短い、途方も無い時間、数秒が永遠の鼓動を刻む………。そしてその後、風と夜の中へ君は声に出して呟く。「助かった!」船は無事躱したのだ。そして君の足の下では、千人の眠れる者達が眠り続けている。

 新任の操舵士が交替しに(古い言い方をするならば)「後継ぎに」来ていて、君は操舵室からよろめき出るが、そこで、具合の悪いことに、自分の周りに壊れた木片が付いていることに気が付き出す。誰かが、幾人かが、君が扉の枠を剥ぎ取るのを手伝ってくれる。君の後輩は何やら君を崇拝する様な妙な雰囲気を漂わせているが、闇でさえ、何故だかそれを隠すことが出来ずにいる。

 それから君は自分の持ち場へと戻る。だが君は多分、幸福な高揚感に元気付いているにも関わらず、少し気分が悪い。

 八点鐘! 君の同僚が君と交替しに来る。何時も通りの作法が済み、君は、千人の眠れる者達の所へと、船橋の階段を下って行く。


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