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(8時から12時までの夜番。夜の帳が降り、視界には氷)


1912年4月14日
北緯41度16分
西経50度14分
を偲んで



 丁度二点鐘が終わったところだ。時刻は九時。君は風上へ歩いて行き、不安気に鼻をひくつかせる。そうとも、間違える筈も無い、とても忘れられるものではない氷の匂いがする………間違え様の無い、口では到底言い表せぬ匂いが。

 君は怖い顔で風上を不安気に(殆ど信じられぬ位不安気に)凝視し、何度も何度も匂いを嗅ぐ。君は眼球が痛み出すまで目を凝らすのを止めようとはしない。すると、君は殆ど正気を失いでもしたかの様な勢いで悪態を吐く。何処かの扉が開いてしまっていて、この巨大な船が何マイルも跨いで進んでいる暗がりの中へと、無益で危険な一筋の光を投げ掛けてしまっているのだ。

 と云うのも、デッキ周辺に少しでも光があると、一時的に当直の士官の目が眩ませられ、夜の闇を、忌々しい脅威を孕んだ二重の暗がりの緞帳へと変えてしまうからだ。君は毒吐き、怒って船室係に電話し、行って状況次第で扉を閉めるか窓に覆いをするかするように言う。そして再び酷く神経を張り詰めさせて警戒に戻る。

 考えてもみるがいい。君は恐らくまだ二十六か二十八の若者で、何マイルもの轟きを上げて驀進するあの夥しい生と富への責任を一人切りで背負っているのだ。君の受け持ちの四時間の内、一時間が経過し、まだ三時間が残っているが、君の神経は既に張り詰め切っている。理由なら分かっている。船橋の電信の針は半速を示しているが、機関室は私的な命令を幾つも受けており、速度は全く落とされてはいないことを、君は重々承知しているからだ。

 そして四方全て、風上も風下も、砕け散る海の波頭から噴出する燐光によって、暗がりがぼんやりとあちこち果てし無く貫かれているのが見える。数千回も、数万回も、君はこれを見る———その光線の前方か、上の方に。そこで君は匂いを嗅ぎ、この半強風の冷気と異状なもの、そして、闇の中の氷の丘か何かを通り過ぎる度に、夜の中から君の所へ忍び寄って来る「個人的な」、荒々しく、忌々しい〈死の悪寒〉とでも言うべきものとを区別しようとする。

 するとそれから、君の周りの見えざる水の混沌の中から絶え間無く噴き出て来る、それら無数の鈍い燐光の閃きが、突如として、威嚇的な、君を怯えさせるものへと変貌する。それらの内のひとつは、何か夜の中の隠れた氷の島………海の波濤の下に潜み、こっそりこちらの船首部を知覚されずに横切ろうとする、何か半ば水に沈んだ、不活発な〈残酷無情な氷の怪物〉の、見えざる岸の周りに砕ける水を意味しているかも知れないからだ。

 君は本能的に闇の中へ手を上げ、「取り舵いっぱい!」と云う叫びが文字通り君の唇を震わせる。その後、君は心配のし過ぎから自分をいい笑い者にせずに済む。を孕んでいるかの様に見えた奇妙な燐光の噴射は、他に何万とある、周囲を取り囲む夜の中の海の(あぶく )の大きなうねりの間を行ったり来たりする、海の光の噴射のひとつに過ぎないと分かったからだ。


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