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 そしてその後彼女は至極たおやかに足を進め、窓を開けて外を見た。彼女の背後で、部屋は謎めいた闇に半ば沈んでいた。椅子やテーブルは、いびつな形を浮かび上がらせていた。周囲は、彼女が扉の上に引いたたっぷりした印度のカーテン越しの、滑石の月から発せられる微かな幻想的な輝きばかり。寝台の黄色い絹の綴れ織りは色彩を仄めかすだけ、薄闇の遠い空に白い雲が架かると、枕と白いシーツとがぼんやりと浮かび上がった。

 彼女は、埃っぽい室内から向きを変え、潤んだ優しい瞳で、園を横切り湖の方を眺め遣った。彼女は体を休めることも、眠ろうと身を横たえることも出来ずにいた。もう遅く、夜は半分更けてしまっているのに、彼女は休めなかったのだ。東から西へと長い帯となって伸びる幾許かの薄霞む雲を通して、鎌状の月がゆっくりと上昇して行き、そして暗い水面から、まるで何かぼんやりとした惑星がもうひとつ昇る様に、青白い光が流れ出し始めた。彼女は飽く無き驚きの念を秘めた瞳で見遣った。すると、月が自由に輝くにつれ、葦原の縁に、それらの槍の様な形の中に、それらが影を投げ掛ける液状の黒檀の中に、真珠と銀の美事な象嵌の中に、奇妙な東方の現象が見えて来た。明るい象徴が空の確固とした静けさの中に架かっていた。

 葦原の縁から微かに湧き上がる音が聞こえて来て、時折、滝が物憂く切れぎれに上げる叫び声がした。それらは夜明けがそう遠くないことを知っていたのだ。湖の中央には彫り込まれた白い台座があり、その上で、唇にダブル・フルートを構えた白い少年が輝いていた。

 湖の向こうから大庭園が始まり、森の端へとなだらかに坂を成していたが、今は鎌状の月の下には暗い雲が架かっていた。それからその向こう、更にもっと遠くには、未知の丘の連なり、一群の灰色の雲、そして天空の高みの青白い急勾配。彼女は、以前の様に夜の深い休息の中へと身を浸し、自らの魂に半ば光、半ば影のヴェールを掛けて、その繊細な両手を霞み掛かった凍れる大気の冷気の中へと伸ばし、その手を不思議に思いつつも、優しい瞳で見詰め入った。

 それから彼女は窓から向き直り、ペルシャ絨毯の上に自分用に長クッションを用意して、そこで遙かイスパハンの薔薇の下で夢見る詩人の如くに凝っと動かず、恍惚として、半ば座り、半ば身を横たえた。彼女は凝っと瞳を凝らしていたが、つまるところ、その光景と両の瞳が見せているのは、輝きを発するヴェール、奇妙な光と形の薄織りに他ならぬことが確かめられた。つまり、その中には、現実も実体も存在しないと云うことだ。彼は何時だって、ひとつの実体、ひとつの知、ひとつの宗教しか存在しないと云うこと、外界は真実を隠しもすれば明らかにもする、斑模様の影でしかないと云うことを、彼女に語って聞かせてくれていた。彼女は今それを信じた。

 彼は彼女に、肉体的な歓喜は、言語を絶する謎の、感覚を超えた世界の儀式と表現であって、それへは感覚的な手段によって入らねばならないことを明らかにしてくれていた。彼女は今やそれを信じた。彼女は一ヶ月前に出逢ったその時から、彼のどんな言葉でも決して疑ったことはなかった。彼女は東屋に座った儘上を見上げていたのだが、彼女の父親が、痩せて浅黒い、先の尖った鬚と憂愁に沈む瞳とを持った見知らぬ人を連れて薔薇の並木道をこちらへと歩いて来たのだった。握手をした時、彼は何か独り言を呟いた。彼女は遙かなる音楽の木霊の様に響くその豊かな未知の言葉を聞いた。後になって彼は彼女に、それらの言葉が何を意味するのかを語って聞かせてくれた。



 汝我迷へりと如何に言へるや? 我薔薇の間を彷徨へり。
 彼道に惑ひて薔薇の園へ立ち入りたるや?
 愛しき者の家のに在りし恋人は、寄る辺無からず。
 我薔薇の間を彷徨へり。汝我迷へりと如何に言へるや?





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