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 ベルギーで朝の二時、或る救急車の運転手が車から降り立って欠伸をした。前の夜から雨が続き、世界はぐっしょりと濡れていた。だが到頭勝ち誇った西風が雲を追い回し、そのバラバラになった仲間達をひとつひとつ積み上げていた。突然、月が輝いた。一方の通りに羊の様に群れ集まった崩壊した白い家並みが、東側の、照明弾の方へ顔を向けた。反対側の崩壊した暗い家並みは空に向かって、その壊れた壁や垂木を翳した。運転手は暫く見乍ら立ち尽くした。彼は溜息を吐いたが、上手いことその儘欠伸に転じ、それから担架二台を車に積む準備をする為に立ち去った。それから、元は子供の遊び場であった所へ入り、元は学校の地下室であった救護所の方へと歩いて行った。今夜は、学校の地下室から運び出す手際の何とゆっくりしていたことか? 今夜は、負傷者を運び出す手際の何とゆっくりしていたことか? 彼は砲弾がビルを抜けて行って出来た新しい穴を確かめた。そして堆積した瓦礫の傍に立って、月を眺めた。直立した巨大な白い雲が頭上を飛んで行った。それは見るからに宇宙そのものの様に深みのある空を突き抜けて絶えず自分の方へ倒れ掛かって来ようとするので、彼はまるで自分が空中に浮かぶ途方も無いピサの斜塔か何かの麓に立っているかの様な錯覚を覚え乍ら、その側面を見上げた。月は、まるで何かの福音を必死になって彼に知らせようとしているかの様に、月らしい意味有り気な眼差しで彼を見詰めた。この突然の美に魅惑されて、彼は暫く立ち尽くした。それからハッとして、月を前にして慎重に欠伸をした。

 負傷者が運び出された。一方は呻き、もう一方は黙っていた。一方の顔は上掛けの下に半ば隠れ、そして惨めたらしく蠢いていた。もう一方の顔は白い包帯の下に完全に隠れていた。担架は直ぐに収容され、運転手と担架兵 (ブラカルジェ )が席に着いて、古いバスは通りをのろのろと下って行った。

 呻いている男は規則的に呻いたが、車がどすんと跳ねる時には悲鳴を上げることになった。もう一人は静かに横たわっていた。〈大した後方勤務者 (アビュスケ・スラッカー )だな、私は!〉と運転手は思った。〈このくたびれた連中は私のことをどう思うだろう?〉呻く男はもう〈爺さん (ヴュー・パパ )〉で、戦争が、耕したり子を成したりする人生の、似つかわしくない最後の章となったのだった。似つかわしくはなかったが、彼は不満を漏らさなかった。勇敢さは彼の専門外だったが、彼は自分に期待されたどんなことからも逃げることは無かった。今や彼は苦痛に消耗し、旅の終わりを祈り乍ら、或いは死体の山や野獣や炸裂する砲弾の醜怪な光景の中で気が遠くなり乍らも、結局気が付くと再び苦痛の竃の中に居るのだった。もう一人は凝っと横たわっていた。その霊がこの地上の、或いはこの虚ろな空の何処を彷徨っているのか、誰にも分かる筈も無かった。〈これは惨めなゲームだ〉と運転手は思った。〈どうしてもっと早く入隊しなかったんだろう?〉彼は平和の原則などと云うものを持ち合わせている訳ではなかったし、平和主義者を自称する人間は嫌いだった。戦争は恐るべき過ちかも知れないが、ガリポリやフランダースに居る兵士の友人達は、立派に死んで行った。彼等は自分自身を超えたのだ。ずっとこそ泥でいるよりも、酷い過ちを犯して、仲間と友に苦しむ方がいい。彼にとっては、戦争は科学的な憎悪ではなかった。それは狂気に陥った愛だった。英国は彼を求め、そして英国は神よりも近いものだった。それに、戦うのは間違いだと誰が言っただろうか? 最上のものは、戦ってこそ勝ち取られる。神はサタンと戦った。神が平和主義者であったならば、楽園喪失はどんなことになっていたことだろう!

 月明かりに照らされた大通りを運転し乍ら、運転手はそう考えた。病院で車は荷を降ろし、彼は、同じ様な者達を大勢受け入れたドアを通って、二人の怪我をした男達が運ばれるのを見た。

 早暁の時間になり、運転手は急いで戻った。まるで災厄などその方角からは何ひとつ来なかったかの様に、憎しみなどこの世界には存在しないかの様に、東にローズピンクの輝きが閃いた。この妖精の国の中へ彼は運転して行ったが、朝の喜びが彼の中で目覚めつつあった。だがものみなの柔らかい見掛けは、彼の決意を揺さぶりはしなかった。どうしても、そう、どうしても彼は入隊し、友達と共に彼の命を捧げねばならないのだ。赤十字 (レッド・クロス )は、彼の様な者にとって重過ぎる十字架 (クロス )ではなかった。夜明けが、夜の中に取り残されていた救護所を呑み込んだ。全天が燃え上がった。彼は行くだろう、きっとそうする。より優れた男達が躊躇わずに戦っていると云う時に、彼が判断すべきことは何なのか? クエーカー教徒である彼の両親は嘆き悲しむだろう、だが彼はやらなければならない。両親の悲嘆を考えるのは嫌だった。どの道戦争とは、実際酷いものなのだ。事実、戦おうと彼が決意する傍から、既に幻滅が始まっていた。秘められた声はこう囁いていた、〈お前は戦わないのが恥ずかしいから戦おうとしているだけなのだ〉〈お前は勝利や大義の為にではなく、お前自身の心の平和の為に戦おうとしているのだ。お前は大義に我を忘れている訳ではない。お前は、お前が求める心の平和さえ見出すことは出来ないだろう〉。太陽が、東の雲堤の背後から差し込んで来て、木々や野原や煌めく運河が突然笑い出し、明るく輝いた様に見えた。〈おお神よ、何と云う世界だろう!〉車が轟音を立てている最中、運転手は声に出して叫んだ。疑い様も無く、今や彼が敢えて参加を決めたからには、あの秘められた声を、太陽と田園風景が承認したのだ。


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