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 私の以前の本の或る書評者は、そもそもどうしてこの様な本が書かれる必要があったのか理解し難いと言った。彼の見方からすればこの見解は、この本を彼の意識のスポットライトから抜け落ちてしまわせる理由として充分根拠のあるものだった。同様にして、大多数の本がそもそも書かれるべきではなかったと云う事実は、書き手の手を止めてしまうものである。今日、紙の不足やら戦時労働の切迫やらで、一冊の本に出版は愚か、書く価値があるのかどうかと云う問いは、昔よりも尤もなものになっている。この本がお目見えを正当化するだけの意義のあるものなのかどうかは、読者と書評者に俟たねばならない。しかし恐らく私がひと言説明を付け加えたからと云って、彼等も冠を曲げることはないだろう。

 この本は、勿論、予言と看做されるべきものではない。また私がここで人類について想像したふたつの未来についてだが、これらはどちらも全く起こりそうにないことである。歴史的予言は常に失敗する運命にあるものだ。作り話の書き手はともかく、最も洗練された社会学者と云えども、ムーア爺様*より信用に足る予言者であると云う訳ではない。無論、ファシズムの擡頭を全く予見することが出来なかったこの私なぞ、欧州の変化の次なる段階を描写する権利を主張出来るものではない。

 しかしこの本は予言を為そうと云うものではない。これは単に今この世界で衝突しているふたつの傾向に対し、象徴的な表現を与えようとするものに過ぎない。これ以上上手い言葉がないので、私はそれらを闇への意志と光への意志と呼ぶ。私は具体的な形で、しかし写真の如き精確さを持ったものとしてよりは寧ろ戯画として、人類種族の前に横たわるふたつの可能性を提示する。この様な本を書くことが正当化されるかどうかは、三つの問いに対する答えに掛かっている。こうした衝突が存在しているか? それは重要か? 私がそれについて描いた戯画は、心をはっきりさせ、気持ちを掻き乱すに足る描き方をしているだろうか?

                                                                         
オラフ・ステープルドン 
 1941年10月



*オールドムーア年鑑のことか?



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