ウィリアム・ホープ・ホジスン
(William Hope Hodgson,1877-1918)


生涯

 英国エセックスの牧師の家に十二人兄弟の一人として生まれ、十三才の時からキャビン・ボーイとして船に乗り、八年間過酷な洋上生活を送る。他の船員達から虐待される日々にあって、小柄な体をカヴァーする為にボディビルと柔道を修め、船を降りてからは「W・H・ホジスン体育教室」を開く。脱出王フィーディーニが或る時縄抜けの術を行った際に、ホジスンが彼に挑戦してギリギリとその鎖を締め上げ、フィーディーニが苦戦を強いられたと云うエピソードは有名である。*海や嵐、或いはボディビルダーを撮影する写真家として活躍したが、生活は苦しく、1904年頃からは執筆に手を染め、1905年に「熱帯の恐怖」を発表してから作家としても活躍した。1913年に幼馴染の雑誌の編集者と結婚してからは経済的な理由から南仏に移住したが、第一次世界大戦が始まると陸軍の指揮官として戦闘に参加、ベルギーの前線で斥候任務中に流れ弾を受け戦死した。


*この件については、フーディニの伝記『フーディーニ!!!』(ケネス・シルバーマン著、高井宏子・庄司宏子・大田原眞澄共訳、アスペクト、1999)に詳しい。




解説

 ホジスンの作品群はそれなりに多彩である。『亡霊海賊』や『グレン・キャリグ号のボート』、或いは『無潮の海より』等の様な、奇怪な生物達が跳梁跋扈する海洋奇譚であるとか、或いは「水槽の恐怖」や「死の女神」等の諸短編の様な陸を舞台にした怪奇サスペンスもあれば、ゴールト船長シリーズの様な純然たる犯罪小説もあり、カーナッキ・シリーズの様なオカルト科学探偵ものや、『夜の国』や『境界に立つ家』等、地球の遙かなる未来の暗澹たる姿を描いた科学ロマンス作品もある。しかしドタバタ喜劇調のものや悲哀漂う幻想的な作品も中にはあるが、全般的には緊迫感溢れるサスペンス調のものが多く、全く解決が着かない儘暗い結末を迎えることも屡々である。

 これらの諸作品に登場する人物の描写の多くにひとつ共通しているのは、その姿形はもちろん、経歴、性格、嗜好等が殆ど明らかぬされないと云う点である。大局に於て中心となるのは奇怪で異常な出来事と、それを取り囲むムードであり、語り手や他の登場人物達は、それらを人間的な事象として記述するための媒体に過ぎない。 *彼等は屡々不可解でどうにも出来ぬ状況に投げ込まれ乍ら、ひたすらどうにかして生き残ろうと行動することによって物語の中を這い進んで行き、自らが如何にちっぽけな存在であるのかを証明してゆく。例えば『夜の国』では数百万年後の地球の姿が描かれるが、ウェルズの『時間機』に出て来るエロイとモーロックの様な進化論的な視点はホジスンにはなく、百万年後の人間がどんな姿形をしているかと云うことについては、全く記述がない。読者に判るのは、彼等が我々と同じメンタリティを持っていると云うことだけである。語るべき視点さえあれば、後はそれを語る者の具体的な詳細についてはどうでもいいのだ。

 ホジスンが辛い洋上生活を経験したことは先に述べたが、ホジスンの書く海を舞台にした諸作品に現れる海には、他の海洋作家達の多くが描くところの「闘い、勝ち取るべきものとしての非情な海」としての姿はなく、寧ろ「前触れもなく襲い来り、じわじわと包囲して近付いて来る、人間的な事象から隔絶した宇宙」としての海と、そこに迷い込んでしまった無力な存在としての人間との不幸な邂逅が淡々と述べられてゆくだけである。登場人物達の悲惨な破滅に対して同情は寄せられず、唯々闇雲に怯えて目の前の危難がひとつひとつ過ぎ去ってゆくのを凝っと耐えて見ているしかない。彼等の姿は、仮令それが自分から首を突っ込んで行った場合であるとしても、まるで海と云う世界に乗り出して来たこと自体が大きな過ちであるかの様に、その理不尽さに対して何の釈明もなく読者に訴え掛けてくる。それはまるで、不合理で悍ましい恐怖に満ち満ちたこの現実そのものの中で生きて行くと云うことはどの様なことなのか、身を以て説明しようとしているかの様にも見える。

 ホジスンの作品には、往々にして倫理的に、魂の高みを保持しようとし続けて生きている瞑想的な(だが非行動的ではない)人物が出て来るが、恐怖と美の併存、男女の間の至純の愛と、怪異に覆われ未来に対して全く望みの持てない暗黒の状況とが同時に描かれると云うことが多いのも、ホジスン作品の特徴である。この異様な組み合わせは、確かにホジスンの独創に由るものではないにせよ、ホジスン程その痛ましい対比を全く何の躊躇いもなく余計なことを言わずに押し切って描き上げてしまう作家は極めて珍しい。

 例えば『無潮の海より』では、語り手は全く助けの来る見込みのない絶望的なサルガッソー海の真只中に閉じ込められ乍らも、結婚し、何と子供まで作ってしまう。『夜の国』では、地球全体が暗闇に閉ざされ、それが回復する見込みは全くないのにも関わらず、語り手達は愛の素晴らしさを詠い上げ、先のない最後の人類数百万は、閉鎖された大ピラミッドの中に閉じ込められ静かにゆっくりとした滅亡を待ちつつも、英雄の勇気と献身とを褒め讃える。これが例えばステープルドンの場合であれば、語り手は宇宙の非情さと無感覚と、人間の愛や倫理や人生の意味との狭間で葛藤し色々と苦悩するのであるが、ホジスンの場合、語り手は絶望的な状況に対して苦闘を強いられはするが、自分の行動の終局的な意味について思い悩むことは一切ない。唯ひたすらに黙々と、外的な要因によって失われた愛を取り戻し、「愛の家」を打ち建て、それを守るべく行動するのみである。彼はそれに対して一切の言い訳をしない。彼はそれがまるで物事の自然な秩序であり、従うべき唯一の規範であるかの如くに振舞う。それはその周囲の異常なまでの寂寞とした非人間性と対比される時、一種異様な迫力を以て読者の胸に迫って来る。

 数あるホジスン作品の中でも、百万年後の暗黒に閉ざされた地球に於ける愛と地獄巡りを描いた『夜の国』、映画のフィルムを早回しする様な具合に太陽系滅亡のヴィジョンを描き上げた『境界に立つ家』、そして地球を取り囲む恐るべき脅威が夢を通して地上に侵入する『豚』を媒介としてこれら二作品と繋げることの出来るカーナッキ・シリーズはここで特記しておくに値する。これらは悪夢の如き幻想に疑似科学的な装いを持たせることによって、ホジスンの諸作品全体に、壮大で無情な宇宙史の広がりを背景として展開することに成功しているが、そこに古風な騎士道的メロドラマと倫理性、そして心霊的なヴィジョンを混淆させることによって、これらは来るべき時代を覆う更なる闇の予感を孕んで、読者の心に忍従と黙考を強いて来る。世界が過酷であることに、そして恐らくはこの先もずっと過酷であり続けることに理由はない。真っ暗に閉ざされた息苦しい状況の中、外部からの救いは訪れない。全く希望のない世界、終末が予め先取りされて判ってしまっている宇宙に住むと云うこと、ホジスンの傑作群は、こうしたコズミックな悲観論の雰囲気を美事に表現し尽くしている。ホジスンは史上初の世界大戦有数の激戦地に斃れたが、地上に於けるあの新たな地獄の出現の後に若しホジスンが生き延びていたら、果たしてどの様な光景を我々に見せてくれたのだろうかと思うのは、恐らく私だけではあるまい。



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