月下の双眸



 禍々しい月が地に這うものども全てを嘲笑うかの様に天空にぽっかりと空いた穴めいた冴えざえとした光を隈無く撒き散らすと、辺り一面いきなりあらゆるものの輪郭がくっきりと浮かび上がり、己がそこに存在していることをそのひとつひとつが声高に主張し始めたかの様に色と形とで月光の呼び掛けに応え始めた。カァンと云う冷えびえとした音が何処からか紺色の夜の中に響き渡ると、私は思わず世界を切り換えてしまいそうになったが、幻燈会には観客だけではなくそれを映し出す者もまた居るのだと云う事実を思い起こして、その儘その静寂の中で動かぬことにした。地を撫で回すかの様な厭らしい夜風に好き放題に生い茂った草原が音も無く揺れ、私は、私を破滅させるものの眸を覗き込んだ儘、夜の沈黙がじっくりと凝固して行くのを呼吸を止めて見守って行った。下卑た笑い声の様な虫の声がより騒々しい方を目指してきちきちと微かに谺を響かせて夜の(あわい )へと拡散し、屍肉で出来た獣は、ほんのわずか身動 (みじろ )ぎしただけで、夢の無い眠りの続きを貪り続けた。

 私は待ち、ひたすらに耐え、身構えていたが、君の認識している世界と私の認識している世界とは、君が思っているのとは違う仕方で全く異なっているのだと云う秘密を打ち明けることは出来ずに、必死になって隠し続けた。私の目の中に葛藤を読み取ったのか、一瞬、物問いた気な口が開いたが、その奥から音声が発せられることは竟に無く、その儘暫くしてしっとりとした唇はまた固く閉じられた。私は大いに安堵すると共に失望と口惜しさを覚え、一気に核心を抉り出してくれぬ相手の臆病な態度に怒りつつも、そう思ってしまう自分の身勝手さと、それが抱え込んでいる事実の大きさとに諦めにも似た絶望を感じ始めていた。延期された破局はそうこうしている内にもじわりじわりと私達の内部を食い荒らして行き、その苦痛を増大させて行ったが、これ程近くに居乍らもれ程までに引き裂かれて在ると云うのは耐え難い経験だった。互いの間に横たわっている知識の差、認識のずれ、理解の疎隔距離は、今や何を以てしても埋めることは出来ず、私達は終局的に相容れない存在と成り果ててしまっていた。私達は互いに孤独で、打ち捨てられていたが、その孤独を共有することが何としても叶わないと言い訳の仕様も無く明白に判ってしまった今、私達は以前に千倍も増して孤独で、無知で、無力だった。

 石を投げれば届きそうな距離の叢から鳥が一羽、激しい羽搏きを無情な大気へと打ち付け乍ら飛び立った。虫達の声がハタと一斉に止み、息が苦しくなる程の沈黙を暫し続けた後、またぽつりぽつりと元の様に鳴き始めた。だが戻った秘めやかな喧噪には何処か何者かの気配があり、その根底には何かを促す様な不可解な静寂が漂っていた。何かを凝っと待っているかの様な闃としたその無言の巨大な空虚は、時間流を塞き止め、空間を凍結させ、何かを為そうと、或いは為させようとしていた。闇夜から天空へこっそり伸ばされた手の様に、鋭い暗雲がゆっくりと流れて来て月の光を遮ると、辺りは噎び泣く様な薄暗がりに包まれた。その闇に乗じる様に、私は白痴の如く一度口を開き掛けたが、後は何も続けることが出来ずに、唯目の前にあった首に両手を掛け、力を込めた。ぎりぎりと着実に力が加わって行くと云うのに、抵抗らしい抵抗は全く無いのが却って無気味に恐ろしく、私達は互いの眸から決然と目を逸らさずに見詰め続けた。何処で何う間違ってしまったのか、いや、そもそも何か間違いと呼べる様なものがあったのかさえ、私には解らなかった。最早明確に思い出すことすら難しい数多の経緯が脳裏を横切っては消え、私の心を掻き乱して行ったが、それで何ひとつ答えが出る訳でもなく、唯、私が私であったが故の宿痾が罪業だと言うのであれば、きっとこれがその罰なのだと混乱した頭で考えていた。不意に、泣きたい気持ちに襲われた。両手に顔を埋め、声を出して嗚咽し、嘆きを表し、祈りを捧げ懇願し、自らの苦悩は正当なものであると高らかに宣言してやりたかった。だが自分でも解ってはいたのだが、涙なぞ一滴も出よう筈が無く、在るのは唯容赦無く残酷に絞まって行く両の手だけだった。その内に見たくはなかった苦悶の表情が現れ、喉の奥から嘔吐する様な音が聞こえて来た。それは何かの音節を成しているのではないかと云う気が一瞬したが、私は懸命にその考えを振り払おうとした。聞いてはいけない、聞いてしまったら最後、全てが台無しになることがそこには隠されていると云う予感、いや、確信があったのだ。私はそこで力を緩めたりはせず、寧ろ逆に強めた。迷妄の迷いを断ち切る為に、眸の奥だけを更に覗き込んだ。

 ことが終わると、私は立ち上がり、肩で呼吸をしていたので少し自分を落ち着けた。それから服の中から、首に提げていた望遠鏡を取り出すと、地面に半分頭を除かせていた亀の甲羅めいた石の上に思い切り叩き付けた。激しい悪罵と呪詛と共に、宇宙へと差し伸べられた私の眼差しはバラバラに砕け散り、叢の陰の闇の中へと消えて行った。(かぐろ )い雲が流れて切れ目から月が顔を出し、地上には届かない強い狂風が、上空に蟠る影を蹴散らして行った。私の頭上で無窮の星空がその恐るべき全容を露にしようとしていた。



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