時間機 タイム・マシン:或る発明 』
(The Time Machine: An Invention,1895)



解説

 H.G.ウェルズの出世作であり、最早余計な紹介は不要だとも思われる世界的傑作。それ自体「タイム・マシンもの」と云うひとつのジャンルを生み出し、またその暗い未来世界の予想図は、後生の作家達のイマジネーションに多大な影響を与えた。映画化も何度か為されており、その亜流模倣者の数を数え上げたら切りがない。

 ウェルズの初期のSF作品は今でも世界中で読み続けられているが、その際屡々閑却されてしまうのが、それらの持つ思想的側面である。彼の小説は悉く、それぞれが大変に面白い物語であると同時に、科学が齎す視野の拡大が垣間見せさせてくれるひとつの世界観を表している。ヴェルヌが科学「技術」についてのSFを書いた作家だとするならば、ウェルズは科学「思想」を取り扱った作家である。彼は日常に埋没した読者達に向かって、様々な科学理論や発見や技術的発展が今日我々の世界に対して意味するもの、或いは意味し得るものが何であるのかを説明しようとした。ウェルズが大衆的な書き方をし始めて最初の大ヒットである『時間機』の中にも、今日ではありふれたものになってしまったか廃れてしまったかして目立たなくなっている幾つかの重要な要素が認められる。

 先ず目に付くのは時間旅行と云うアイディアそのものである。ウェルズの時間機はその技術的側面に関しては全く触れられていないが、その思想的背景としては、当時の流行であった四次元の幾何学が挙げられる。C.H.ヒントン(1853-1907)が四次元幾何学についての最初の文章を発表したのが1880年であるが、*19世紀末から20世紀初頭にかけては、怪しげな心霊主義を交えたものも含めて、四次元についての議論が盛んであった。第一章の会話で時間旅行家は四次元幾何学についての議論を展開しているが、其処で挙げられる「第四の次元」は時間である。第四の次元として想定され得るものとしては高次の空間と時間との二通りがあるのだが、当時想定されていた「第四の次元」は通常空間的なものであった。多元幾何学と云う発想そのものは別段ウェルズの独創でも何でもないのだが、後者の系の中を自由に「移動」する、と云う奇想天外な発想は、紛れもなくウェルズ自身の独創である。アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが1905年であり、時間と空間に関する現代の知見が根本から覆ってしまう時はもう間近に迫っていたのであるが、その僅か10年前に発表された『時間機』は、これまで当たり前のものとしてのっぺりと延べ広がっていた時間と云う概念を、ひとつの変数「でしかない」ものとして扱うことが出来ると云うことを直感的に大衆に理解させるのに際して、大きなインパクトがあったと思われる。

 ウェルズの時間旅行物語は、今日の時間旅行物語の主流である「歴史改変もの」、若しくは「平行世界もの」のヴァリエーションとは意を異にしている。タイム・パラドクスの問題等がSF小説のテーマとして取り上げられるのはもっとずっと後の時代になってからのことであり、『時間機』は全体としては寧ろ、「未来史もの」のジャンルに属している。ホジスン、**ホイル、クラーク、ステイブルフォード、バクスター***等の後継者達に対する本書の影響は歴然としているが、例えばハインラインの『夏の扉』や映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をこれと同列に並べることは出来ない。個人を取り巻く極く日常的な事情のみが主要な意味を持ち、壮大な人類進化の歴史に想いを馳せる余裕のない作品は、幾ら時間旅行と云う一点に於て共通していようとも、ウェルズの作品とは相容れないものである。

 『時間機』で描き出される未来世界は暗い。ウェルズは後に近未来もの色々と書いているが、『時間機』に於ける遠未来の描写に特徴的なのは、進化と退化の要素である。ダーウィンが『種の起原』(1859)を発表してから進化論は生物学の分野を超えて様々な方面にセンセーションを巻き起こしたが、それは大英帝国の繁栄と相俟って、一般的なレヴェルに於ては何時しか「進歩」の概念と混淆する様になっていった。果てしない成長と発展を繰り返し、人類の未来には輝かしい勝利が待っている筈であったが、ウェルズはこれに真っ向から異を唱えた。世界に広がるその輝かしい栄光の対価物として、貧困が、生活の圧迫が、思想の抑圧が苛酷さを増していた。進化の絶頂にあった筈の人類は、その文明の著しい発達にも関わらず、まるで逆行するかの様に野蛮状態に陥っていたのである。

 この面に関して注目すべき点が三つある。先ずは、進化論の意味するところの宇宙の可動性を具体的に、直感的に大衆にも解り易く描いてみせたこと。時間と云う、空間と並んで言わばその「中」で世界が形作られるところの枠組みを、それ自体ひとつの距離の尺度として描き出してみせたことについては先に述べた。進化論は通常時間的には過去についての理論であるが、ウェルズはそのベクトルを遠い未来に振り向けることによって、人類の現在の姿が不変のものではないと云う思想を非常に明確に読者に理解させることに成功している。「現在」と云うものは人類の今日を支え、明日へと突き動かす原動力であるが、それは同時に想像力を縛り付ける桎梏である。地質学的な、或いは天文学的な単位で物事を眺めた場合、一体現在の必要が、成功が、自己満足が、最終的にどれだけの意味を持つものだろうか? ヒトは猿から進化したものかも知れないが、その行く末が猿以下のものであったとしたら、現在の人類の傲慢が何程のものであろうか?

 もうひとつ重要なのは、ここで描かれている「進化」が、単なる変化や適応を示している訳ではなく、「進歩」へのアンチテーゼとなっていると云う点である。モーロック族やエロイ族を見て読者が嫌悪を覚えるのは、それが「退化」を具現した存在、つまり知性と高潔さを可能とするところの人間性から、愚昧と利己性そのものである獣性へと「堕落」した存在であるからである。****未来は常により良きものとなっていくとは限らない。人類が注意を怠れば、世界は無知と怠惰と悲惨の一大劇場へと変わり得るのである。機械と労働者達に支えられた階級制度への安住、これがエロイ族の没落の原因であるが、それはその儘19世紀末の資本家達の姿に繋がる。ウェルズは彼等に対して警告する、「気を付けろ! 目の前に横たわるこの余りにも明白な事実を自覚しなければ、お前達の末路はこんなものだのだぞ」と。

 そして見逃してはらないのは、社会的な側面である。エロイ族とモーロック族は異なる生活習慣、異なる身体的特徴をしているが、その違いの起源についての説明は社会的なものであると説明されている。*****ウェルズは後年、人類の生態学、つまり、史学や社会学に生物学的な基盤を持たせ、生物のひとつの種としての人類と云う概念を普及させることに力を注いだが、社会学と進化論を結合させたこうした未来種族の描写は、人間が宇宙の他の部分と切り離された存在ではない、人間もまた自然の法則に従う存在であると云うことを衝撃的な形で活写して見せてくれるものである。科学的知見が齎す途方もない世界観によって人間の営み全体を、その存在自体を取り込むこと、これがウェルズの終生変わらぬ野心であった。



*以下の文献を参照。
 C.H.ヒントン『科学的ロマンス集』(宮川雅訳、国書刊行会、バベルの図書館25、1990)

**例えば、ホジスンの『境界に立つ家』(1908)に出て来る時間が加速される場面は、明らかにウェルズの描いた時間旅行を更に大規模にしたものである。

***バクスターはウェルズの遺族公認の『時間機』の「続編」を書いている。
 スティーヴン・バクスター『タイム・シップ 上下』(中村尚哉訳、ハヤカワ文庫、1998)

****このモチーフはこの頃既に第一稿が書かれていた『モロー博士の島』(1986)で更に敷衍されることになる。

*****このエロイ族とモーロック族は一見、資本家階級と労働者階級の象徴の様にも見えるが、後年ウェルズは「プロレタリアート」等の階級概念を実体を持たない幽霊の様なものだとしてマルクスとマルクス主義を激しく批判してもいる。この点彼の解釈がどうなっているのかは非常に興味をそそられる研究テーマである。




以下の文献、レビューも参照

 Three Prophetic Science Fiction Novels of H.G. Wells (Dover Pubns, 1960)
 The Time Machine (Patrick Parrinder ed., Penguin Classics, 2005)



第14章:更に遙かなる光景 へはこちら から




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