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 幻想小説 ファンタジー の定義をしろと言われるのか。そいつは結構大変なことなのではなかろうか。私自身まだ、それが何であるかについての十分納得のゆく全網羅的な定式にはお目に掛かったことがない——それが何でない 、、、 かと云うことについては確信があるのであるが。

 それは非現実的なものを現実の様に見せる芸術だ、と言う者もあるが、これは非常に脆い定義であると私は思う。仮に私が読者に対して非現実的なものを現実的にすることに成功したとして、その時非現実的なものは非現実的であるのを止めるのではなかろうか。つまり、現実になるのではなかろうか?

 では何が一体——非現実的なのか?

 真の幻想小説はふたつの基本的要素を持っていなければならぬと私は思う。ひとつは詩を作る精神である。そして二つ目は真の数学の持つリズムである。

 ここで真の数学と云うのは、算盤や会計事務所の精神のことではなく、繋がりを持った系列であり、明晰性であり、理念を、例えば相対性の理念を結晶化することの出来る高等数学の持つ必然さのことである。

 何故、川縁の桜草が、或る者にとっては一本の黄色い桜草であり(多分この引用は間違っている)、或いは何故、ワーズワースにとってそうであった様に、同じ花が喜悦の園であるのかを説明出来る者は誰もいない。どちらが実際に 、、、 現実的なものなのだろうか? どちらであろうと、詩人は実際に 、、、 我々に新しい世界を開いてくれるものである——もう一方の観察者は明らかにそうではない (、、、、 )のであるが。

   幻想小説はこの新しい世界へのひとつの鍵である。しかし多くの人々は旅行者ではないし、新しい世界を歩き廻りたいとも思っていない——彼等は桜草を唯の黄色い花と見る方を好むのである。

 そしてこれこそが、多くの人々が斯くも猛烈に幻想小説と見えるもの全てに反対する理由ではないかと私は思う。それは彼等を心細くさせ、焦れったい程に当惑させ、つまりは不安にさせてしまうのである。私の場合は、読者はその本を大変気に入ってくれて、ボロボロになるまで使ってくれるか——或いは、私のことを激しく嫌って、竈か、或いは余り衛生的とは言えない拘置所か何かの中に私を放り込もうとするか、どちらかであることが判っている。  これは私にとって何時も大いに慰められる考えである。

 〈宇宙〉 コスモス は現実的である——或いはそうである様に見える。だが、相対性の話に戻るが、四次元連続体の一部分としての時間の測定は全て、完全に想像上のものである単位を、つまり1秒にマイナス1の平方根を掛けたものを用いて行われているのである。「若し」と、偉大な物理学者のひとりであるジェイムズ・ジーンズ卿は言っている、「何故我々がこうした奇ッ怪な計測方法を採用するのかと問われれば、その答えは、それらが自然自身の計測系である様に見えるからなのだ、と云うものになる」。

 では何が現実的で何が非現実的なのか? 「心の窓を開く力の他に現実的なものはない」


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