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 デイル氏はロンドンの西部に静かな部屋を持っていたが、或る日彼は、鉛筆と紙切れとを持って大変に(せは )しく立て込んでいた。彼は書きものや、扉から窓へと単調にうろつき回る途中で動きを止め、訳の分からない文字列をざっと書き留め、そしてまた仕事へと立ち戻った。昼食時には道具類をテーブルの上の自分の脇に控えさせ、晩方緑地を歩く時には小さなノートブックを持って行った。時々彼は、まるで恥の熱か、はたまた懐疑的な驚きが彼の手を捕えたかの様に、書くと云う行為に何か困難を覚えている様であったが、しかし一枚いちまいと紙の断片は引き出しの中に落ちて行き、そして一日が終わる頃には山の様になっていた。

 薄暗がりにパイプを点け乍ら、彼は窓際に立って通りを眺めていた。遠くに馬車の明かりが本道の上を、丘を上ったり下ったり、あちこちへ閃いた。通りの向こうには地味な灰色の長い家並みが見え、殆どが賑やかに明かりを点し、夜に抗して、食堂や夕食を照らし出しているのだった。丁度反対側の一軒の家に一際明るい照明があって、開いた窓からは穏やかな晩餐会が進行中なのが窺われ、背の高い、傘の付いたランプが点されると、一階の客間があちこち赤い色に輝いた。あらゆる所に、デイルは、静かで快適な世間様を見て取った。歓楽がなければ騒動も起こらないもので、彼は自分がこうしたまともで称讃に値する通りに「部屋」を持てた幸運について考えてみた。

 舗道には殆ど人気が無かった。時々、召使いが一人、脇にある扉から飛び出して来て、店のある方へちょこちょこと走り去ったり、同じ様に急いで数分以内に戻って来たりしていた。だが通行人は稀で、長く間が空いた時に、他所者が一人公道からふらふらと出て来て、まるでその入口を千回も通ったことがあったのだが、今になって到々好奇心を、未知のものを探求する欲望をそそられたかの様に、アビンドン道をゆっくり思案しつつぶらついていただけだった。その区画の全住民は、自分達がもの静かで、隔絶していることを誇りにしており、誰かが堕落の道を、悍ましきものの根城を、黒い周辺地区の口を突き進んでしまって忌わしい有り様に成ろうことなど、多くの者は夢にさえ思ってはいなかった。実の所、病んで悪臭を放つ話の数々が、西や東に平行して通っている通りについて語られていた。そうした所は恐らく、その彼方の恐ろしい掃き溜めと付き合いがあって、しかしアビンドン道の良き方面に住んでいる者達は、そうした隣人達については何も知らないのだった。

 デイルは窓から大きく身を乗り出した。青醒めたロンドンの空はランプが点されると真紅へと深まり、夕闇の中で家々の前の小さな庭達が輝き出し、もっとはっきりしてきた様に見えた。黄金のキンサグリは日が沈んだ後に空にかかった最後の明るい黄色のヴェールを仄かに反射し、白いサンザシは壮麗な微光を放ち、赤いセイヨウサンザシは、薄暗がりの中の無炎の火だった。開いた窓から、デイルは、度を越さぬ程度にカップが満たされまた空にされる音で、反対側にある食堂の賑やかさが増していくのに気が付いた。乳母達が子供達と一緒にやって来ると、高い階の鎧戸が、通りを照らし出したり暗くしたりした。草や木や花々の香りのする穏やかな微風が、舗道の石から昼間の熱を吹き去らせ、花をつけた枝々を通してざわめき、また道を静かに残して沈み込んだ。

 この情景全てが、各階の優しい家庭の平和を呼吸していた。どちらを向いても、平凡な生活、果たされた退屈な義務、真っ当で常識的な考えがあった。彼は窓に耳を(そばだ )てる必要などないと感じていた。彼は全ての会話を言い当てることが出来たし、会話が流れる普段の穏やかな筋道を推測することも出来たからだ。ここには発作もなく、狂喜もなく、ロマンスの赤い嵐もなく、安全な安らぎがあった。結婚も誕生も出産も、ここでは朝食や昼食や午後のお茶以上のものではなかった。


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