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 幼い頃より、既に(うつつ )とは思われぬ様な在りし日の朧げな日々より、彼女は森の中の灰色の石を思い出すのだった。

 その形は何やら柱とピラミッドの合の子の様なもので、その灰色の厳粛さは葉や草の直中に輝き、そうした往時より輝き出でて、何時だって驚異を仄めかしていた。今でも彼女は憶えているのだが、まだほんの小さな女の子だった頃、或る日、暑い午後に、乳母の側からはぐれてしまって、森の中を少し行った草の間に灰色の石が立っており、彼女は恐怖にパニックを起こし、叫び出して駆け戻ったのだった。

 「お馬鹿なお嬢ちゃんだこと」と乳母が言った。「あれは唯の———石ですよ」彼女はその召使いが教えてくれたその名前をすっかり忘れてしまい、大きくなると今度は恥ずかしくなって何時も訊くことが出来なかった。

 だが、あの暑い日、森で灰色の像を初めてそれと意識して見た、幼い頃のあの燃え上がる様な午後のことは、何時だって記憶ではなく感覚として残っていた。海原の様にうねる広い森、日差しの中で明るく揺れ動く枝々、草や花々の甘い香り、頬に打ち付ける夏の風、古い綴れ織り然乍らに、豊かで、不明瞭で、豪華で、意味ありげな低い空き地の薄暗がり。彼女はそれら全てを感じて、見て、その香りを鼻孔に捉えることが出来た。そして、その光景の真ん中、奇怪な植物がゾッと影を成して生い茂っている所に、その石の古い灰色の姿があった。

 だが、また別の、もっとずっと以前の印象の切れぎれの断片が、彼女の心の中には残っていた。それらはどれもはっきりせず、影の影、ぼんやりとしていてまるで小さな子供の起きている時の混乱した考えと混じり合ってしまった夢の様にさえ思えた。彼女は憶えていると云うことを自覚していた訳では無かったが、可成りその記憶を憶えていた。だがとにかく、それは夏の或る日のことで、ひとりの女、多分同じ乳母が、彼女を腕に抱いて、森の中を歩いていた。女は片手に鮮やかな花を持っていた。夢の中では鮮やかな赤い輝きと、コテージ・ローズの香りとがしていた。やがて彼女は自分が草の上に降ろされたことに気が付いたが、それから赤い色彩が気味の悪い石を汚して、他には何も無かった———唯、或る夜、彼女は目が覚めて、その乳母が啜り泣いているのを耳にした。

 彼女は屡々、極く幼い頃の生活の奇怪さについて考えたものだ。黒雲より光が輝きを放ち、だがそれは一瞬のことで、その後で夜が来たかの様だった。それまはるで重く、謎めいた、真っ黒で見通しの利かない天鵞絨のカーテンを凝っと見詰める様なもので、それから瞬きをひとつしてみると、今度はその壁や尖塔が炎に包まれた、お話で聞いた燃え上がる街並を、針の穴を通して覗き見るのだった。それから再び層を成す闇があって、そしてその光景は殆ど見ている内に幻影へと変じて行った。灰色の石の、その上に流れた赤い色彩の、あの一番最初の不確かな幻視 (ヴィジョン )は、夜に泣いていた乳母のちぐはぐな挿話と共に、彼女にとっては斯くの如くだった。

 だが、後の記憶ははっきりしていた。彼女は今でも、乳母のスカートへと甲高い悲鳴を上げて駆け戻ることになったあの理屈に合わない恐怖を感じることが出来た。後になって、少女時代を通じて、その石はどの子供の想像にも取り憑く非常に多くの理解不能のものどもの中にその位置を占めた。それは受け入れるべきであって疑問を持つべきではない、人生の一部だった。彼女より年長の者達は彼女が理解出来ない様々なことどもを語り、本を開いては漠然と驚き、聖書の中には奇異な句が幾らも溢れていた。実際、彼女は両親の振る舞いや、互いの間で交わされる彼等の目付き、彼等が言いかけて止めたことどもに屡々困惑を覚えたのだが、殆ど問題だとさえ認めることが出来なかったそうしたあらゆる問題の中に、あの暗い草の中に立つ灰色の古の姿はあった。


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