『人間和音』
(The Human Chord,1910)


解説

 ブラックウッドの小説は時として冗長になりがちだが、本書は彼の長編の中でも恐らく最もテンポのいい作品である。物語はひとりの青年が或る引退牧師の下で働くことになり、和音(Chord)に関するその不思議な研究に参加してゆくと云うもので、人間一人ひとりが持っている固有の「音」や事物の正しい「名前」を利用して万有と神の秘密に探りを入れようとする、奇想天外な試みの軌跡を描いている。オカルティスト=一種のマッド・サイエンティストであるスケール師は作中で様々なオカルト理論を語っているが、かと云って本書は特にオカルトの実践書としての機能がある訳ではなく、飽く迄実験の進展と深化を巡る人間模様に焦点を当てた小説である。夢想家の一青年の視点から語られることによって、それは一種の教養小説、秘儀参入小説としての面白さを備えている。

 宇宙は振動であり、事物には隠された「名前」があると云う発想はオカルトめいているどころか、明らかにオカルティズムそのものである*が、詳しく語られることのないその理論には独特の解釈とアレンジが施されている。例えば作中特に重要なヘブライ語の深秘の四文字(具体的に明示はされていないが、ヘブライ語の四文字であることから、「EHVH」即ち「ヤーヴェ」「ヤハウェ」のことであろうと推測される)等についての記述は、カバラ思想との親和性を連想させるし、万有の秩序と和音とを結び付けると云う点は、ピュタゴラスやケプラーの「天界の音楽」論等に代表される一連の神秘思想を思い起こさせるが、ソプラノ、アルト、テノール、バスと云う四声をその儘世界の四秩序に当て嵌めると云うアイディアは紛れもなくブラックウッドの発明で、他に例を見ない。

 抽象的な理論や学説のこうした具体化は、作劇法としては実に効果的ではあるのだが、同時に扱いをひとつ間違えれば喜劇に陥ってしまうと云う危険性を孕んでいる。方向性と概要しか語られることのない本書の和音論は、例えば万有音楽論が幾何学=音楽の持つ ratio 比=理と云う知性的な核をその基盤に措くのに対して、もっと身体的所作に密着した、心霊主義や或る種の超能力に結び付いており、その実験の成否が即物的に描かれることによって、物語の展開に劇的な効果を与えることに成功している。また真理探求の道程と平行して、主人公の恋の様子が和音による調和の過程として描かれているが、これもまた本書に異色の恋愛小説(或いは恋愛「論」小説)としての興を添えている。


*魔術のこうした側面について、オカルティズムのジャーゴンに埋もれてしまわずに、合理的にこれを解析してみせた本を探すのは難しい。参考文献としてここでは以下のものだけを挙げておく。
 井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を求めて』(岩波文庫、1991)
 鎌田東二『神界のフィールドワーク 霊額と民俗学の生成』(ちくま学芸文庫、1999)




以下の文献、レビューも参照

 The Human Chord(House of Stratus,2001)



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