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07/12/07(金) ショスタコ祭りに行って来ました!
交響曲第11番『1905年』 交響曲第12番『1917年』 お薦め 07/04/30(月) HP一部公開停止のお知らせとお詫び 07/03/17(土) 『君が代不起立』上映会 |
ショスタコ祭りに行って来ました! 本題に入る前に最近また長々とサボっているお詫びを。どうも私は気分屋で、テンションの波が一度沈み込んでしまうと仲々這い上がれません。紹介すべき黒森作品もどんどん溜まって来ているのですが、その様はまるで昔やっていた通信添削のテストの山の様。腹立たしい世界情勢も一向に改善しないし、「黒森血尿事件」の顛末とか「夏のコンサート2007」の感想とかも書こうと思っていたのですが、明日書こう明日書こうと思っている内にずるずるとタイミングを逃してしまいました。今回盛り上がったイベントを機に何とか気力を振り絞って回復を試みてみました。 さてここからが本題。先月から『日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲プロジェクト2007』と云う企画が日比谷公会堂で行われているのですが、これは指揮者井上道義氏が僅か約1ヶ月でショスタコーヴィチの交響曲全15曲を全て演奏してしまおうと云う、凄まじいと云うかトチ狂ったと云うか、凡そ真っ当な音楽家なら正気を疑いたくなる様な酔狂で物好きな企画です。普通は最後までやり通せるかどうか二の足を踏むものですが、ネットでの感想を見る限り、これが結構名演を生んでいるらしいので驚きです。 今回(12/05水)私が聴きに行ったのは名古屋フィルハーモニ−管弦楽団の演奏で、交響曲第11番と12番。本当はもっと色々聴きたかったのですが、貧乏ヒマ無し金無しで、 取り敢えず個人的に好みの曲を選んでチケットを買いました(出来れば1番なんかも聴きたかったのですが………)。私は同じ金があるならコンサートへ行くよりもCDを買うタイプなので、コンサート自体が久し振りで、ショスタコーヴィチを生で聴くのは、実に十数年前に小林研一郎指揮による5番を聴いて以来です。11番も12番も無茶苦茶に気力と体力を消耗する作品なので、これを2曲一緒になんてどうかしてるとしか思えませんが、聴く方にとってはこれ程お得な演目もありません。 ミッチー(一部では「ミッキー」と呼んで欲しいと云う説もあるそうですが、真偽は知りません)こと井上氏はどちらかと言うと爆演系なのですが、基本的にタフで手堅い作りをする指揮者で、良い意味で定盤向きの演奏をする方です。何やら全身から確信に満ちたオーラを放つ、スキンヘッドの強烈なキャラクターが一部では人気です。こんな感じ(↓)の、四六時中何だかやたらとアツいと云う印象のある人で、CDもそれ程出していないので演奏を耳にする機会はそれ程多くないのですが、私はとても好きな指揮者です。 ![]() 開場は18:30。霞ヶ関で丸の内線を下りて、18:20前には日比谷公園へ。既に日は疾っくに落ちて辺りは とっぷりと暗く、視界を確保しているのはビル街から発せられる無機質な明かりだけ。気温は割と肌寒い位なのですが、12月なんだから出来れば雪のひとつも降って欲しかったとやや物足りない気分に。東京では贅沢な望みではあるものの、雪国生まれの身としてはもう少し寒々しい雰囲気が欲しかったところ。銀杏の葉の降り積もる薄暗い公演内を抜けて日比谷公会堂へ。2階の正面入口に向かって右側の階段には当日券を求める列が、左側には開場を待つ人の列がそれぞれ並んでいました。そちらを見上げて何やら陥れられたとか何とか呪詛の言葉を叫ぶ謎のおじさんが。これも都会ではよくある光景ですな。2階入口前には「日露友好」企画だからなのか、マトリョーシカ人形やら精巧なティーカップやら、ロシアの名産品を並べたテーブルが並べられていました。 ![]() 時間になって中へ入ると、入口が狭い所為かもうかなり混雑した状態。レンガ造りの古めかしいロビーにはこの企画の為のカンパを求める大瓶(演奏後には結構千円札が溜まっていました)が置いてあったり、ショスタコーヴィチ関連の書籍やCD、今回のプログラムや次公演のチケット、ミッチーのブロマイドが売られていたり。ショスタコーヴィチのCDはヤンソンス、フェドセーエフ、アシュケナージ等のもので予想通り井上氏のものは無く、井上盤はモーツァルトやブルックナー等しか置いていませんでした。井上盤ショスタコーヴィチ交響曲全集とか出ないんでしょうか。せめて今回出来の良かったものだけでもバラでCDにしてくれないものでしょうか。ステージにはマイクが何本も立てられていましたが、当然録音していたのでしょう。後でNHK-FM辺りで放送するのかも知れません。 ![]() 今回の公演は何と全席3,000円一律と云う驚きの価格設定なので、思い切って普段は買えない前の方の席を予約してみたのですが、これが本当に前の席で、何と前から2列目。目の前にコントラバスとチェロがどーんと陣取っていて、オケの後ろの方が全然見えません。平日と云うこともあり、また最近演奏回数の増えている11番はともかく12番の方はややマイナーな曲なので、中央部の座席は粗方埋まっていましたが、辺縁部は空席が目立ちました。まだ早い時間にはステージの上でおさらいをしている団員も結構いて、耳馴れたフレーズの数々に段々とテンションが上がって行きます。 そして19:00に開演。拍手と共に名古屋フィルハーモニ−管弦楽団の面々が、そして井上氏が姿を現し、演奏開始です。 やっぱり生の演奏はCDとは違いますね。耳だけではなく全身で曲を感じると云うのは、コンサート会場に足を運ばないと体験出来ません。何せ周りに人が居ると何かと色々気を遣わなければならないので、場合によっては曲に集中出来ないこともあって嫌なのですが、時に再現された音では感じることの出来ないものを感じることが出来る生の演奏はやはりいいものです。今回は座った場所の所為もあってか、本当に文字通り腹の底で音を感じることが出来ました。オケが一体となって気合いを入れると、腹の辺りとか座席にビリビリと物理的に振動を感じるのです。あの異様な抱擁感は忘れられません。 因みに私は今期の風邪がまだ少し治り切っていなかったのですが、演奏中は一度も咳が出ませんでした。精神が集中していると体の反応も違うのでしょうか。 交響曲第11番 『1905年』は1905年の帝政ロシアによる民衆の虐殺事件、通称「血の日曜日」事件を描いた、或いはそれを隠れ蓑にして、発表当時のソ連のハンガリーでの虐殺事件を暗に批判したと言われる、かなり血生臭い交響曲。霧の立ち篭めるピーンと張り詰めた冬の朝の森を息を殺した兵士達が進んで行く様な、触れればザクッと切れそうな陰鬱な情景を描いた長い長い序奏から始まって、全編これ陰惨にして残酷。最後にドカーンと聴かせるタイプの曲なのですが、5番や7番と違って無理に歓喜に持って行かず、暗澹たる惨劇が全く解決されない儘、重苦しい怒りと恐怖を絶叫して終わります。これだけのボリュームでひたすら暗く激しいショスタコーヴィチの曲は、実に交響曲第1番以来でしょう。ショスタコーヴィチお得意の、過去の自作の曲や革命歌のモチーフをあちこちに鏤めているらしいのですが、その辺の詳しいことは私は良く知りません。 「ショスタコーヴィチの元ネタ集」なんてCDを何処かで企画してくれないものでしょうか。 演奏の方は所々細かいミスや、ややオケが力量不足か、それとも自分達の演奏に確信が持てないのかな?と思わせる箇所もあり、技術的には不満が残りがちではありましたが、総じて気合いの入った演奏。 緊張感と云うよりかは、力の込もった熱気がぐいぐい伝わって来ました。巧い演奏と良い演奏とは単純にイコールではないと云う良い見本です。前述した通り私の座席はコンバス隊を見上げる辺りにあったので、そのお陰で演奏中はコントラバスの音がやたらと大きく聞こえて来たのですが、演奏が進むにつれてそれも段々気にならなくなって行きました。但やはり後ろの席が全く見えないのはちと臨場感を損ないますね。生の場合は視覚面も大事です。 その代わりミッチーの横顔は堪能出来ました。井上氏はかなりオーバーアクション系の指揮者で、何を言いたいのかが実に明快、曲の表情がいちいちはっきり解る指揮をするので、見ているだけでも結構楽しめました。テレビと違って余計なカットが入らないのが生演奏のいいところです。ずっと以前にテレビで見た時には気付かなかったのですが、彼は下半身も結構表情豊かで、指揮台の上で踊ったりジャンプしたりする指揮者を実際に見たのは久し振りです。今回、斜め後ろから見上げると角度によってはちょっとぬらりひょんに見えると云うことも発見しました(ついでに言うと、もう少し髪を伸ばすと俳優のドワイト・シュルツに似ているのではないでしょうか)。 怒濤の演奏終了後、数瞬置いて一部から拍手が。と、周囲の沈黙に押されてか一旦静まり、その後じわじわと拍手がワーッと沸き上がって来ました。12/01(土)の4番の演奏では、誰かが曲が終わる前にフライング拍手をしてしまって大顰蹙を買ったそうですが、今回はその範疇には入らないものの、やはりピーンと張り詰めた演奏後の余韻を暫し味わっていたいと云う方も多いことでしょうし、ちょっと微妙なところです。私自身は曲が終わった後の静寂もまた音楽の一部と考えたい方なのですが。折角生で聴いているんですし。曲によっては演奏が終わった後直ぐにパチパチやりたくなる気持ちも解らないではないですが。因みに演奏後ソリストや各バートが立ち上がってお辞儀をする段になっても、私の居る位置からは誰が何をしているやら全く判りませんでした。これも今後席を選ぶ時の反省点に入れないといけません。 11番の後は20分の休憩時間なのですが、トイレへ立ったついでについミッチーブロマイドを買ってしまいました。絵葉書タイプのが4枚で500円。いえほんの出来心で。私は買いませんでしたが、A4のが2,000円、A3のサイン入りの(ラミネート加工済!)が5,000円でした。ミッチーLOVE♪な人が買うんでしょうか………。 休憩時間の後半は何故か映画監督の篠田正浩氏が井上氏と取り留めの無いトークを。丁度50年前に日比谷公会堂で武満徹のデビューを聴いたとか、井上氏が昔成人指定で観てはいけない『心中天網島』を観たとか、3千円でも3万円でも同じで感動はお金じゃ買えないとか、ショスタコーヴィチを演奏するのは賭けみたいなもので名フィルとやるのも賭けだとか、有難いんだか何なんだか全然纏まらない話を数分間。まぁ気分転換にはなりました。コンサートって聴くだけでも結構気力を消耗するんですよね。特にこう云った凄まじい曲の力演の場合は。 お次は交響曲第12番『1917年』。初演以来何故か凡作とけなされることの多かった割と不遇な曲で、演奏回数も多くありませんが、断言します、傑作です。12番は11番の姉妹編と見る人も居る様ですが、演奏時間こそ短めなものの、成る程そのスケールの大きさはそう言われても違和感がありません。ダイナミックさでは5番や7番に対しても引けを取らないでしょう。井上氏は「11番と12番を続けて演奏するなんて世界でも例が無い」と云う様なことを言っていましたが、若しショスタコーヴィチが本当に姉妹編としてこの曲を作ったのだとしたら、11番に続けて12番を聴くのが、ひょっとしたら実は正統な鑑賞法なのかも知れません。 ところが肝心の演奏の方なのですが、不思議なことに何故か「始まったと思ったらもう終わっていた」と云うことしか憶えていません。別に詰まらなくて眠っていた訳ではありません、寧ろその反対で、元々大好きな曲だし演奏も素晴らしいので、一節一節集中して聴いていました。ところが気付いたらもう終盤に差し掛かっていて………あれ、もう終わり? もっともっと続くんじゃなかったっけ? そんな馬鹿な、さっき始まったばっかりだろう? あれ、もう9時過ぎてる!? と混乱していたら、やっぱり本当に終わってしまいました。確かに、70分近い11番と比べると12番はその半分ちょっと、実際に演奏時間は短いのですが、それにしてもあれだけアッと云う間に終わってしまうのは珍しく、あの感覚と云うのは、聴衆ではなく演奏者として、何ヶ月も一所懸命に練習した曲を無我夢中で演奏し終えた時の感覚に似ています。それだけオケと一体化していたと云うことなのでしょうか………。季節の所為かも知れませんし、私のちょっと不安定な最近の心理状態も影響しているかも知れません。とにかく字義通り夢の様な素晴らしい演奏で、ゆっくり「鑑賞」する余裕なんぞありません、「聴いた」と言うより「体験した」、最後まで一気に全力で駆け抜けた様な演奏でした。 演奏後、今度はやや間を置いて熱狂的な拍手の大波と断続的な歓声やブラボー、口笛が澎湃と沸き起こり、オケが全員舞台袖へ引っ込んでしまってからも仲々止まず、最後に井上氏だけがまた出て来た時には自然とスタンディング・オベーションになりました。私も手の平が少し痛くなるまで手を叩き続け、その後不思議な充足感に満たされて家路へ就きました(ぽーっとしていたお陰で降りる駅を盛大に間違えると云うおまけ付きでしたが)。 おまけとして私のお薦め盤を紹介しておきましょう。 11番は名演は色々あるのですが、定盤っぽいのは選ぶのが難しいので、異色のカエターニ盤をお薦めしておきます。カエターニの演奏はぎらぎらとした色彩豊かな、かなり異形の出来なのですが、その比類無い重量級の大迫力は一度聴けば圧倒されること間違い無しです。 12番のお薦めは同じくカエターニでもいいのですがアシュケナージ盤を挙げておきます。アシュケナージの交響曲全集は一部のショスタコマニアからはそれ程高い評価は得られていない様ですが、この12番に関しては当たりだと思います。大胆で良い意味でのケレン味があって、オケの力が精一杯引き出されている名演です。難しいことは抜きにしてその熱気に身を委ねてみて下さい。 |
HP一部公開停止のお知らせとお詫び 今月20日より、サーバーのサービス移行に伴うトラブルにより、全データが削除されてしまいました。何とか現在のドメインは保持出来たので仮公開は出来るのですが、このHPは元々全て手作業で非常に効率の悪い方法でアップしている為、復旧にはもう暫く時間が掛かります。暫時公開して行きますので、申し訳ありませんが気長にお待ち下さい。 にしても、3年以上も経つと流石に分量が洒落にならない位になっています。単行本の二、三冊は楽に作れる位は溜まっているでしょう。システムも変更になった様で幾つか作り変えねばならないページもありますし、この際少々整理をしてみることにします。尤も、表面に現れる部分は以前と大して変わりませんが………。 |
『君が代不起立』上映会 報告が大分遅くなってしまいましたが、先月02/23(金)黒森と一緒に、東京都中野区のなかのゼロ小ホールで開催された『君が代不起立』の上映会に行って来ました。当日は雨が降りそうな感じでしたが仲々に盛況で、お隣の大ホール(何の催しがあるのかは知りません)には遠く及ばないものの、開場時間の18:15にはもう行列が出来ており、玄関前では共謀罪法案やイラク派兵反対等のビラを配っている方々が何人もいました。ホールでは卒業式や入学式の時期を前にした各種署名活動や資金集めのグッズ(TシャツやDVD、書籍等)販売が行われていて、恐らくは教育関係者と思しき人々の群れでごった返しており、定員550名の座席は6、7割も埋まっていたでしょうか。開演は18:30。約90分の上映の後休憩を挟み、その後出演者の根津公子さん、河原井純子さん、制作者の松原明さん、佐々木有美さんによる、それぞれの体験談や感想等を述べ合うトーク会が行われ、更にグッズの宣伝の後21時過ぎに解散となりました。
![]() 映画の内容そのものは至ってシンプルです。根津さんや河原井さん他、東京都による君が代・日の丸の強制に反対する教師達の活動とインタビューを纏めたもの。既にニュースサイト等で見知った映像もありましたが、やはり一気に続けて見てみると迫力があります。それぞれに悩み、葛藤し、決断した教育者達の姿が訥々と語られていました。 映像で見て、また直に見て分かったのですが、根津さん達は「先生」ではなく生徒とお互いに「さん」付けで呼び合うとのことでしたが、ああ、これは生徒達を見下すのではなく生徒達の中へ入って行くタイプの人だなと云う印象を受けました。個人的に根津さんの様な方に昔大変お世話になったから自信を持って言えますが、彼女達は生徒ひとりひとりと、ひとりの人間としてきちんと相手に向き合うことの出来るタイプの人達です。今回今まで以上に親近感を持って問題を考えることが出来る様になりました。 しかし、唯持ち上げて応援するだけなら下記のお知らせサイトでもやっているので、ここでは少し辛口にやってみましょう。 批判その1 情報量が少ない・偏っている 先ず、映画は全体的に、部外者を意識しての情報量が少ない様に感じました。外部の観客へ向けての説得力がまだまだ弱い様に思います。限られた時間内で一定のメッセージを詰め込まなければならないので削る部分が出て来るのは当然ですが、もう少し日の当たらない部分や都側の対応等にも目を向けた方が良かったのではないでしょうか。 例えば実際に不起立行動を起こした教師達ばかりではなく、他の起立した教師達や生徒達に対して日常的に加えられた抑圧の実態について。教師の生活を盾にして生徒達を「教育」ではなく「脅迫」したり、生徒の自主的判断を一切認めない「管理」体制の在り方等について、普段からこうした問題についての記事を読んでいる者ならば今更解説の要はないでしょうが、この映画を広く一般の人々にも観て貰う為には、些か説明不足ではないかと感じる所がありました。また、命令に逆らった教師が食らう「処分」についても、減給や停職、学校や式典からの閉め出しと、映像にし易い部分は収められていましたが、「研修」や「事情聴取」の名を冠した陰湿な嫌がらせ等、撮影が許可されない等の理由によって映像にし難い部分については殆どカットしてしまっていました。もう少し体制側の姿勢を見せておいた方が、観客も対比によって自分の頭で判断がし易くなったのではないでしょうか。取材や記録が禁じられている部分もあるとは言え、コメントの形ででももう少し具体的に収録することは出来た筈です。 映画では「君が代・日の丸が歴史的にどう云う意味を持っているか、と云う基本的な判断材料が生徒達に対して提示されていない」と云うことが問題にされていましたが、基本的な事実を知らないのは恐らく一般市民も同じです。松原さんはそうしたことは「日本人なら解説の必要はないだろうと思って日本語版には入れなかった」とコメントしておられますが、どうも判断が甘い様に思います。今だに「南京大虐殺は無かった」と主張する者が国会議員をやっていられる御時世です、君が代の歌詞の内容すら全く知らない大人が大勢いる、と云う位の危機感を持って臨まないと、人々に訴える力は出て来ないだろうと思うのですがどうでしょうか。恐らく根津さん達が反対しているのが君が代・日の丸そのものではなく、それらを強制することに対してだと云うことさえ、よく理解出来ていない方々は多い筈です。そうした人々のことも、視野に入れて行くべきではないでしょうか。 上映後のトークで松原さんが「インタビューに応じて貰えなくて大変だった」と云うことを言っていましたが、申し出を断られたからと云って何も描かないのではなく、「断られた」と云うこと自体が既に報道されるべき事件なのではないでしょうか。少なくとも、個人に関してはプライバシ−保護の観点から差し控えるにしても、少なくとも市民に対して回答の義務のあるお役所がまともな回答をしない、と云うことについてはは映像にするか、せめて「断られた」「まともな回答を拒否された」と云う主旨のナレーションを入れた方が、ぐっと説得力が増す筈です。大元凶の石原都知事も、一度姿だけ映されただけで一言も喋っていませんでしたが、せめて公の会見での発言位入れても良かったのではないでしょうか。都側の主張も盛り込めと云うのは、別に「客観性」を重んじろとかそうしたことではありません。主義主張があって作っている作品である以上何等かのメッセージを伝えようとするのは大切です。ですが一方の側の主張だけを取り上げていたのでは、その正否を観客が判断するだけの材料が不足していると思うのです。これは観客を外へ向かって広げようとするとする時には大事なことです。 批判その2 闘い方が時に的外れ 映画に盛り込まれた映像には、張り込みをする公安課の刑事、校門前で生徒達に配られたビラを敷地内に入った途端回収する地域住民、生徒達の「キモーイ」発言、校長や他の教師達から向けられる白い目、お役所対応でだんまりを決め込むお役人の面々等、事態の異常さや当事者達の辛さがよく解る具体的な場面が幾つもありました(会場から時折笑いのさざ波が沸き起こりましたが、それらは共感によるものでした)。そうした中で不起立の決断をした教師の方々は、やはりそれなりに多くのものを犠牲にする覚悟で行動に臨んだものと思います。当然、その行動が必死の形相を帯びて来るのもよく解ります。ですが映像で見る限り、彼女達の戦い方には、やはりどうも、組織を相手にするには傍から見て随分非効率的ではないかと思われるやり方が目立ちました。これはこの問題に直接関わりを持たない一般市民達が、恐らく「デモや抗議行動をする様な思想とか主義とかにかぶれた人々」に対して抱くイメージを決定付けるものである以上、見過ごすことの出来ない点です。 例えば、決められた対応しかしない下っ端役人の前で早口で声明文を読み上げたところで精々自己満足にしかなりませんし、黙秘を続ける彼等に「あなたはどう思うんですか? 自分の考えは無いんですか?」と問い掛けるところなど、見方によっては、真面目に仕事をこなしているだけのお役人を、返答出来ないのをいいことに左翼の教師連中がいじめている、と云う解釈も成り立ちかねません(実際にいじめをしているのはお役人の方なのですが)。命令に反旗を翻した教師達にしてみれば、彼等は元々熱心な教育者達です、暖簾に腕押しの様なのらりくらりとした、しかし厳しい締め付けに業を煮やして、対応に当たった個々人の良心に訴えたくなる気持ちも解ります。ですが相手の側にしてみれば、仮に個々人では君が代の強制に対して何等かの見解を持っているにせよ、組織の人間には余計な発言は命取りになります。自分達は命じられた仕事を粛々とこなしているだけであって、それに頭のおかしい連中が文句を付けて来るので困っている、と云う認識が当然先立つ筈です。今の様に労働者切り捨て御免が罷り通る世の中では、既得権益にしがみつき、頑なに保守的な態度を取り続ける者が多くて当然です。教師と云う、人間ひとりひとりと向き合わねばならない仕事をしている人々が組織の人間達を相手にしなくなった時に、対応を間違えるのは仕方のないことかも知れませんが、このやり方は無駄が多い上に、報道のされ方によっては却って逆効果になりかねません。 ついでなので補足しておきますが、この日会場に集まったのは殆どが見たところ40代後半以上の人々だけでした。東京都の教師に個人的な知り合いがいないので具体的なところは私には解らないのですが、少なくとも私の知っている若い労働者の諸君には、こうした問題にはなるべく関わりを持ちたくはない、と云う傾向を持つ者が殆どです。若い者は冒険心に富む、などとはとんでもない、寧ろこの自由にものが言えなくなっている時代状況を敏感に察して、それに(悪い意味で)順応してしまっている、と云う印象を受けます。ちょっとレールから外れただけで、それが直ぐに明日の糧の有無に直結する、と云う状況では、残念ですがビクつくのは当然です。世の中正しいことだけでは渡って行けない、だからこそ、いざと云う時には闘い方を慎重に選んでおいた方が良いと思うのです。 組織と闘うにはやはりそれに見合った戦略が必要になります。特にこうした法的権限をちらつかせて思想の暴力が揮われる場合、現場でちまちま争っていたって殆ど無駄です。どうせなら石原都知事に直接代表団との面会を申し込んでみる位のことをしなければ効果は期待出来ません。自分に逆らう者は茶化して誤魔化すか恫喝するか逃げ回るかと云う都知事のことですから、面会を拒否することも当然考えられますが、その時はそれ自体ニュース価値のあることですから、ネットでも何でもいいから、そうした事実をどんどん公表してゆけば良いのです。そもそもマスコミがこうした問題に対して払う関心が低過ぎます。何よりも先ず、法と世論を味方に付けることです。公の場で法的な実効力のある闘いを挑み、それと同時に、市民の皆さんに基本的な事実を知って貰うよう工夫を凝らすことが何よりも肝要なのではないでしょうか。 批判その3 日教組は何をしているのか? これは少し話がずれるのですが、根津さんへのインタビューで、日教組にこの問題を取り上げてくれる様に頼んだら、命令に逆らったら処分を受ける、処分を受けると云うことはその教師の生活が脅かされることである、労働者の生活が脅かされることをする訳にはいかない、と云う論法で断られたと云う話が出て来ました。日教組は労働組合です。労働組合は労働者の諸権利を守る為の組織です。その意味で言えば、労働者としての教師達の日々の糧を保証するのが最優先、と云う主張にも一理ある様にも見えますが、しかしこれはやはりおかしいのではないでしょうか。お腹さえ満たされていれば、思想・良心の自由、言論の自由はどうでもいいとでも云うのでしょうか? これらもまた守られねばならない、特に教育と云う場に於ては重要な意味を持つ立派な諸権利です。これらを堂々と行使することが出来るよう立ち上がり、個人では難しい闘いを組織として行うのが組合と云うものではないでしょうか? 組織と云うものは大きくなればなる程必ず保守化します。既得権益を守りたくなる気持ちも解ります。ですが労働者の生活を盾に取って人間としての大切な権利を無視しようとする現在のやり方は、都の方針に加担するものと言わざるを得ません。君が代・日の丸に公の場で賛意を示すか示さないかと云う選択の自由が保証されていると云うことは、ひいては自尊心を持って仕事に臨むことが出来るかどうかに繋がっています。自らの良心と生徒達への誠実さを放棄した、しかし給料だけはきちんと貰っている教師達の群れを作って、日教組は一体何処を目指そうと云うのでしょうか? 根津さんは「一人ひとりと話してみると、こんなことが正しいと思っている人は実は誰もいない。強制が教育以上正しいことだと私に納得の行く説明をしてくれようとする人は、今まで誰もいなかった。誰もがおかしいと思っているのに、会議等の席になると途端に何も言わなくなってしまう」とトークの席で言っておられました。自主規制、自主検閲が教育の場を支配しているのです。君が代・日の丸に留まらず、人々がおかしいと思うことでも何となく無言の圧力に屈して何も言わずに許容してしまう、そしてそれを拒んだ者は「処分」されると云う「踏み絵社会」と云う事態は、学校に留まらず、多かれ少なかれ世の中で普遍的に見られる現象です。増して今は政府が率先して言論統制や密告、事実の歪曲や隠蔽、ルールの恣意的な破壊に法的拘束力を持たせようとし、しかもマスコミがそれに対する批判力をどんどん失ってしまっている世の中です。振り返ってみれば、私達はこうした無言の屈従に、余りにも慣れ過ぎてしまっているのかも知れません。そんな大人達を見て育った若者達は、それの傾向に拍車を掛けて行くでしょう。ですがその先は何でしょうか? 権力を持った一部の人間が暴走しておかしなことを強要しても、それに誰も異を唱えられない世の中とは? 後生の歴史に照らしてみて、今の我々はどう映るのでしょうか。この馬鹿気た流れの中にあって只何もしなかった、と言わなくても済む為に、具体的に今何が出来るのか、改めて考えさせられる晩でした。 関連リンク 『レイバーネット』ひとりから始まる〜『君が代不起立』東京大上映会 http://www.labornetjp.org/news/2007/1171589927707staff01 『レイバーネット』04/01に開催される第二回東京上映会についての記事 http://www.labornetjp.org/news/2007/1173503669278staff01 ビデオプレス(協賛) http://vpress.la.coocan.jp/ 『ベリタ 2(2007.3)』(柘植書房新社 、2007/02) 根津さんの講演記録が載っています。私は休憩時間に署名したついでにこれを買いました。 数日前、こんな記事を見付けました。校長が「適切に人選」した相手しか式典には参加させない、と云う異常事態が発生している様です。入学式や卒業式も本格的に検閲の時代に突入して来た、と云う感がします。 『asahi com.』「卒業式来賓、校長が選別 都立高 恩師も「お断り」」 http://www.asahi.com/life/update/0310/007.html |