1737.
 ラヴクラフトの小説の文章を「悪文」と評する人は、一体彼の作品の何を読んでいるのだろうか。恐らく読み難いからその様なことを言うのだろうが、「読み易いラヴクラフト作品」などと云う代物に一体どれだけの価値が有るものだろう。恐らくは『ウィアード・テールズ』の他の傑作群の仲間入り位は出来るかも知れないが、一度読んだら後は綺麗さっぱり忘れ去られる他の凡百の諸作品とそう大差無い価値しか持てなかったろう。HPLの文体はそれ自信がオリジナルな彫琢物であり、詩であり、咀嚼を必要とする石の如き結晶物なのだ。離乳食やスナック菓子の様なものこそが「良い」作品だと信じる者達は、その味わい方を心得ていないのだ。


1738.
 今私が目にしているこの人物は果たして個人なのだろうか?―――誰に判ろう、所詮は程度問題だ。私達は状況に依って、またそれを捉える眼差しに依って、或る程度まで個人であったり個人でなかったりする。この惑乱は原則的に定量化出来ない。


1739.
 ポエジー無き生の悍ましさは筆舌に尽くし難い。それは筆舌によって媒介され、溶解され、捨象され、純化され、精製され、昇華されることを始めから峻拒すると云うその退化した姿勢に於て正に、筆舌に尽くし難いのだ。


 人は本来性悪である、などと主張する積もりは無い。」人は原則的にあらゆる道徳的可能性に対して開かれているものである」とは実践理性的な要請であって事実ではなく、実際には外的な要因が、その人が何に成り得るか、その範囲を予め定めてしまっているものである。ひとつには、どう云う環境で生まれ落ちようとも、親の遺伝的形質や栄養状態や嗜好等に因る影響は避けることが出来ない(少なくとも文明の現段階では)。それらは本人の意思とは関係無く、その人がどう云う人間に成り得るかを必然的に制約する。そしてもうひとつ、環境によって人が邪悪に成り得る可能性は驚くべきものである。或る特定のコミュニティに生まれ落ちた人間は、その時点で想像可能な「他者」に対する想像力を或る程度まで狭められた状態で成長する。その視野は自覚的な克己的努力によって拡大することは可能ではあるが、あらゆる人間には所与の状況に満足し、既存の殻の中に閉じ籠り、そこで自足的な満足と安心と幸福を得る方向に流れる傾向が有る。この力は実に強大で、与えられた現実の真正性や唯一性、絶対性、その意義
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