1733.
 摂食、排泄、睡眠、生殖―――これらは全て、我々が肉体としてこの世に生を享けたことに対する懲罰であり、己が身の惨めさ、悲惨さ、醜さを忘れさせまいとする意地悪な神々による暴虐の結果である。ところが世人の大部分はこれを恩恵であり祝福であり、生の充足理由であると心得ているらしい。倒錯も極まれりと言うべきではなかろうか。


1734.
 美はその超越性故に残酷だ。形而下的な醜悪さから余りに遠く、無関心である為に、それは明白な狂気と倒錯の兆候を成す。が、世の邪悪さに倦み疲れた時には、その無為無力無能な力の暴虐に身を曝すことがこの上無く必要と感じられる時も有る。


1735.
 時間的な距離は多くの場合、各種の創作作品を「傑作」として堪能する為には必至の条件である。数十年乃至数百年の距離を間に挟むことによって、彼等は自分とは違う世界を生きた人達なのだと心理的距離を取り、そうした創作者達の創作物を、二重のフィクションとして捉えることが出来る様になるのだ。例えば、L氏は仮に同時代の人間だったら、話にもならない被害妄想と差別意識の持ち主だと映るだろうし、当然彼の諸作品も、彼のそうした歪んで肥大化した自我の反映に過ぎぬと受け止められてしまうことだろう。が、彼は何十年も前に死亡した過去の時代の十人であり、異なる評価基準を用いて判断されるべき人物なのだと云うフィクションで全体の構図を包んでやることによって、その作品の保守性と、その作品を読むと云う体験の保守性の鼻持ちならなさを和らげ、それを「娯楽」として享受可能なものへと摺り替えるのである。無論それは欺瞞ではあるが、私の様に真実なるものをそう易々と飲み下せぬ人間にとっては、凡そ目に映る殆どの事象が元々欺瞞なのであり、現実自体をフィクション化させねば、フィクションを楽しむなどと云う破廉恥な行為は、凡そ基本的に困難であると言わざるを得ないのだ。近過ぎる作品は鑑賞には耐えない。例外が無い訳ではないが、一般的な傾向として良い作品とは死んだ作品の中に見出される。


1736.
 私は神に成りたかった訳ではない。神に成れないことは最初から判り切っていた。唯、何故我々は神に成れないのか、その理由が説明出来ないことで気が狂いそうになっていただけだ。
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