1718.
 人生に於けるささやかな権利として、無駄な時間を過ごす自由位は許されていて然るべきだと思う。だが、どの様な種類の無駄を選ぶかと云う自由もまた確保されていての上でなくては意味を成さない。或る者にとっての「無駄」は、別の者にとっては「途方も無く無駄」を意味することが有るし、更に別の者にとっては「無駄どころか有害」を意味することも有る。


1719.
 イデアならざる現実の粗雑で不十分な音達に毎回殆ど必ず裏切られると判っていても尚、クラシック音楽の演奏会にわざわざ足を運ぶことの効能は、それによって自分が大衆社会ではなく、市民的公共圏の一部で暮らしていると云う感覚を得ることが出来るからだ。近代と云う壮大な試みが既に終了してしまったものとではなく、今尚未完の、我々によって遂行され満たされることを、更新され「演奏」されることを待っているものであると云う意識をそれによって高め、気を引き締めて日常に臨むことが出来る様になるからだ。我々は音響を通じて歴史を獲得しているのであり、それを(キリスト教徒が神の子の死と復活を日々生き直す様に)自らの身体と精神を以て生き直すことにより、それに生命を吹き込み、再-生することが可能であることを、他の人々と共に経験し、知る (、、 )ことが肝要なのだ。少なくとも、第九交響曲の様な曲を聴く時に我々が常に求められているのはそう云うことだろう。


1720.
 この世で、考えること程、普遍的で、強靭な持続性を持ち、魂の興奮と充足感を齎してくれる娯楽は存在しない。これは全人類史を通じて、まぁ断言しても良かろうと思う数少ないことのひとつだ。謎と課題が無かったら、人間は生きることの意味など持ち得ただろうか。


1721.
 学ぶとは自らが無知であると思い知る過程のことであって、自らが物知りであると思い込む過程のことではない。


1722.
 学ぶ者とは自ら無知を自覚して生きることを選択した人間でのことあって、且つその無知の状態を絶えず更新し続ける者のことである。停滞は学習にはそぐわない。
inserted by FC2 system