1703.
 思えば、リップマンが「幻の公衆」について警鐘を鳴らしたのは尤もなことだった。今や公衆なぞ何処に居るのか? わざわざ時間と金を掛けて自力で探さないと見付からないではないか。大多数派が自分達だけの目先の利益ばかりを追及して公益を後回しにして来たお陰で、今や社会全体が沈没しようとしている。大衆に対する絶望と軽蔑を正当化するのに、これ程有利な状況が他に有るだろうか? 或る国の民主主義とやらが市民をではなく私民と消費者だけをしか生み出さないとしたら、それは最早民主主義ではないのだ。


1704.
 知識や情報を持っていること、頭の良いこと、議論が出来ることが、他人から敬意を払われる要素ではなく寧ろ軽侮を招く様な状況がまさか本当に有り得るとは、良識有る人間であればそれが自分の身に降り掛かって来るまでは本当には信じられないだろう。だが有り得るのだ。相手が太った豚で、こちらが痩せたソクラテスであれば尚更だ。太ったソクラテスでさえ指を指してバカにされる状況で、こちらの財布の中身がスカスカだと判明してしまえば、連中は躊躇いも無くその差別的で偏見に満ちた不平等主義的本性を露にする。その癖、彼等は自分達こそが「普通」であり、「常識」を備えており、有識者であり有徳者であり教師であると自認するのだ。まともな人間なら先ず首を突っ込みたくない反知性主義の地獄である。


1705.
 加害者の側が自分の仕出かしたことの意味を全く理解していないどころか明確に否認し、剰え被害者側に責任を押し付けると云うことをしつこく何度もやられたら、被害者の方では怒り心頭に発するに決まっている。知識と想像力の無い人間だけが、罪を犯して尚幸福でいられる。


1706.
 無知な人間が世に蔓延っているのは致し方無い。無知な者は大抵無知であると云う自覚そのものを欠いているので、指摘しても無駄であるし、却って無用の反感を呼ぶ。冷淡な礼儀として、またリスク軽減を重んじる社交戦術として、わざわざ誰かの無知を暴露することは通常は差し控えておくことが肝要である。だがその無知がそれ自体で時として有形無形の社会的暴力であり得ると云うこと、これは少々の反発を買う危険を冒してでも、その事実を認識して貰わなくてはならない。何と云っても我々は平等で対等な権利を持ち、一個の主体として公共圏に参与する公民としてこの社会に住んでいるのであるし、そう云う社会に住もうと皆で約束してそうしている筈だからだ。
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