1697.
 どうせ戦わねばならぬのであれば真実と戦いたい。人間を相手に戦っても面白くも何ともない。


1698.
 毎日、「鈍感であれ」とハンマーで頭を小突かれている気がするが、これは無論私が悪いのだ。時の濾過作用を経た、厳粛な現実の知恵の果実たる凡庸な処世訓を軽んじる者は、犯罪者も同じであり、貶められ、蔑まれ、排斥されて当然の罪人であり、烙印を押された者、忌まれ呪われた者、浄化して消滅させられるべき穢れそのものなのだ。私の様な人種の者に安住の地は無い。救済が有り得るとすれば、それは永遠の中にだけだ。


1699.
 本を大事にしない人と同じ空気を吸って生きて行くのは不可能だ。


1670.
 他人を貶すのが趣味の人はまぁ宜しい。出来るだけ遠ざかっておれば良いだけの話だ。だが他人を貶すのを崇高なる義務と思い込んでいる輩は向こうから大きな声と身振りで寄って来るので、正面から立ち向かうだけの気力や、上手いこと躱すだけの機知を残していない時には、出来るだけ早く苦悶の時間が素早く通り過ぎてくれるのをひたすら耐え忍ぶしか無い。


1671.
 自分がやっても来なかったことや、やる必要の無いこと、出来ないことを当然の如くに他人に強要する人種とは仲良くする必要は無いが、相手の方ではそもそも正常な双方向的な意思の疎通の有無など最初から意に介していないことが多いので、仮令心の防壁を築いてやり過ごそうとしても、被害の質を変えて低減することは可能だろうが、被害そのものの発生を抑えることに関しては、余り意味を成さない。


1672.
 第九とは何であるか。あれだけ壮大な記念碑的構築物を展開しておき乍ら、尚も「私が歌いたいのはこんな調べではない!」と前置きしてからでなくては歌い始められない、あの異常な倒錯は。そこに常識人が近付いてはいけない、近付くべきではない、何か得体の知れぬものが潜んでいるのは確かだが、終点のその先を希求して止まぬその貪欲な姿勢が、あらゆる演奏者達・解釈者達にとっての遂に到達し得ぬ虚焦点として逆説的に作品を完成させているとすれば、そこに何かメシア的なもの、本来具象物には有り得ざる奇跡としての永遠の顕現をそこに読み込もうとする勢力が現れたとしても、別に不思議ではない。ビヤホールで肩を組んで共に笑い合う様な普遍的人類の兄弟愛に素直に感動出来る者はまぁ宜しい、だが自らはその宴に参加し得ぬと自覚している断絶し疎外された自意識達にとってみれば、その崇高な使命にして義務、課題にして歓喜からの離反に対する後ろめたさが、一時間余りの一時の陶酔の裡に自らを喪った振りをすることへの情熱を掻き立てるのだろう。代理救済としての芸術の欺瞞は、引き裂かれ葛藤した近代人の裡でこそ華々しく昇華される。これを不幸な事態と捉えることは勿論出来るが、その不幸の裡でこそ歓喜を歌うことが有り得るものとなることを思えば、幸福な即融一致状態に対する我々の羨望も、少しは割引きされようと云うものだ。絶望を包摂するものとしてではなく、正に絶望と同じ地平線上でこそ輝く歓喜、それに対する恥または罪の感覚無くしては、この曲を正気の儘最後まで聴き通すことは出来ない。「裏切り者奴!」と指を差して罵倒され嘲笑され軽蔑される恐怖と、それを思い浮かべる想像力、それらと共にでなくては、あの自ら崇高と思い込みたがっている絶叫に声を揃えることなぞ出来よう筈は無いのだ。
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