1694.
 「私は狭量で想像力が欠如しており、そのことに関する自覚は有りませんが、それが故に豚の様な満足に安住して暮らして行けています」と宣伝して歩いている様な者しか周囲に見当たらない場合、私が無口に成るのは至極当然の成り行きだと思うのだが。


1695.
 知性に対する敬意を1gも持ち合わせていない人間であろうと、道徳について一家言を持つこと位は出来る。その見解の包摂する世界がどれだけ偏狭であろうと、その中に安住していられる人間にとってはそれが全世界なのであるから、共感的想像力の欠如は一向に彼等を悩ませはしない。寧ろその狭さが素早い解釈と判断を可能にし、余計なことを考えないからこそ、断固とした確信を持って他者を非難出来るのだ。


1696.
 より普遍的なものに触れていると云う実感、或いは、触れているかも知れない、触れ得るかも知れないと云う予感無くしては、他人と会話することに一体何の意味が有るだろう。無論人間存在にとって、言語と云う機能そのものはそれ自体で普遍への契機であり入り口だ。ヒトは言語を通して「人-間」と云う間主観性の領域への扉を開き、それによって言語以前には有り得なかった公共的空間を経験し、それと共に私秘性の闇の深さをも知る。だが一旦永遠の味を知ってしまった者にとっては、高が個々人の生活のあれやこれや、大小様々の些事の集積は、如何にも詰まらなく、卑俗で、矮小で、偏狭で退屈でぼんやりしていて、針小棒大で夜郎自大で、万事につけ大袈裟過ぎる様に見えてしまうものだ。肝心なのは人類であり文明であり世界であり宇宙であり万物の運命であり万象の摂理であり、それに比べると具体的な誰それの或る日の体調とか食べたものとか給料の多寡とか刹那的な快楽経験の数々などは、ものの数にも入らない。無論、現実を構成している原子は、細々とした(より)具体的なものだ。細々とした具体的なものが時に重大な意味を持って個々の人生を規定することが有り得ると云うことは彼/彼女も承知している。だがそれが人生の唯一の重大事であり、現実の中心であり、恰もそれ以外には一切何も存在していないかの様に振る舞うことを強制されることには、彼/彼女は我慢が出来ないのだ。原子を結び付けるのは(より)抽象的なものだが、それが描き出す眺望は、個々の具体的なものがどれだけ奮闘したとしても到底描き得ないものだ。自らの進化の可能性に気が付いてしまった想像力はより広大な地平を求める。それは最早知性にとっての本能とでも呼ぶべきものであって、既存の実利的な目的観念によってのみそれを判断しようとすると必ずピントを外すことになる。言語はそれ自身が鋤であり鍬であり触手であるが、そのことを自覚した者にとっては、すっかり開拓されて飼い馴らされて小物箱か小型辞書の中にちんまり大人しく収められたものとして世界を眺めることは、最早不可能になる。我々は経験を開拓する。世界をその手で発明するのだ。この或る種の使命感と言うことも出来るこの強烈で不抜の感覚を持ったネオフィリアとしての人間………彼等こそが私が同胞と呼び得る人間であり、言葉を交わすのに喜びを得られ得る「幸福な少数者」である。
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