1691.
 私にはこの今の危機感がやがて日常に呑み込まれて陳腐化してしまう将来が見えてしまっている。それは或る意味では不幸なことだ。今の危機がどの様な展開を見せようとも、私は結局同様の無関心さを持って眺めていられるだろうと云う確かな予感が有る。平和だろうと戦争をしていようと、私が世界から疎外された眼差しであると云う事実に変わりが出て来る訳ではない。


1692.
 大衆の大衆性を特徴付けるひとつは、その生の直接性の希薄さだ。大衆は自らの頭で考え、自らの感性で感じ、自らの魂でその存在を震わせる術を知らない。自分自身でその生を設計し、進路付け、自らの望む様に構築して行くと云うモデルロールを知らず、また知ったとしてもそれを自ら実践する勇気を持たない。所謂「人生設計」と呼ばれる豚の生い立ちのシナリオは持ち合わせてはいても、絶えず自らを包括せんとする運動を行い、自らを規定付けようとする実存としての生の青写真は持ち合わせていない。彼等は常に自分達の代わりに誰かが生きてくれていることを欲する。誰かが考え、感じ、存在した生を呆けた眼差しで見詰めて、自分達もまたそうした生に参加している様な気分に成る。彼等が手にするのは粗悪品の、出来合いの、大量生産された既製品の生であって、広告代理店や各種諸々の「先生」達が解り易く解説し、教えてくれ、懇切丁寧に噛み砕いてくれ、咀嚼までしてくれた生が、本来唯一の有り得る生だと思い込んでいる。彼等はけばけばしく極彩色で彩られたどぎつい地図に憧れることは有っても、世界そのものに対して憧れを抱くことは無い。彼等が目にするのは常にブラウン管越しのフィルターを掛けられた「現実」であり、解釈済みの規定路線であり、既に開拓も開墾も済んでしまって、お定まりの解法が定着してしまった定式もどきだけである。
 絶対的基準、絶対を知ろうとする観点からすれば、彼等は明らかに不幸である。が、彼等は自らの不幸を知らない。自らに開かれている可能性の存在を知らないのだから、現行以外の選択肢が在ろうなどとは思いも寄らないからだ。従って相対的には、彼等は幸福である。これ以上無いと云う位に、彼等は幸福なのだ。豚の幸福を存分に享受している豚に向かって「お前は豚だ」と罵ってみたところで何になるだろう。彼等はそれ以外では有り得ないのであり、彼等自身にとってはそうした生こそが「本物」なのであり、真性唯一無二のものなのだ。


1693.
 この世の満足は鈍感で恥を知らぬ者達のものだ。偏狭な書き割りの風景の中で自足し、下卑た矮小な偏見を正義の大剣の如くに振り翳し、恬然として猥歌を放吟出来る者達こそが、この途方も無く狭められた鳥籠の中で豚の快楽を存分に享受出来るのだ。しかも尚悪いことに、彼等は自らの奉じるドグマの布教に殊の外熱心だ。常に自らの想像力の限界を意識し、現在の視野の外側の存在を予感し、神ならぬ身の余りの卑小さに打ち拉がれる余りに否応無く謙虚たらざるを得ない人種を、真実の恩恵を知らぬ無知な者と侮り、彼等の拘束衣にも等しい秩序を紊す異端者と罵り、とどの詰まりは永遠の劣等他者として馬鹿にし続けるのだ。彼等と兄弟に、姉妹に、家族に成れれば、それはそれで美しいことかも知れない。だがその美しい観念がひと度具体的な言葉として、行動として、生活として我々の生を規定しようとする時、とてもではないが我慢の出来ない不愉快さが生じるであろうことを、私は当然のこととして予想せざるを得ない。
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