1686.
 無関心は全てを正当化する。


1687.
 目の前の些事の於ける些細な不正に当然の義憤を感じると云うのは一種の才能であって、それを改善するのに要されるあれやこれやの途方も無く煩瑣な細々とした障害を乗り越えることが、この世界に於て何かその労苦に値するだけの意味を持つものであると云う生理的な信念を育て上げるところの、謂わば大地に根差した生来の知恵である。彼等を前にした時に我々が感じざるを得ない当惑と隔絶感が、自らの不作為をして羞恥せしめるのに十分であった例しは、残念乍らそう多くはない。知性と自意識とが弁明された怠惰の裏返しであることは、何もそう珍しいことではない。


1688.
 普遍性や一般性の妥協無き貫徹は、自らに知性を課した者全てが負うべき、数少ない神聖とも言って良いであろう義務であり、個別の状況が如何に変化しようとも、二重基準や御都合主義や信念無き改宗の跳梁跋扈を認めるべきではないのだ。一旦現実の頑固な非理念性に膝を屈したが最後、そこから再度立ち上がるのは誠に容易ではない。和解と救済への道を求めることも出来ないではないが、それは屢々事態がどう仕様も無い程手遅れになってからのことなのだ。


1689.
 知的な怠惰と傲慢は、必ず共に手を携えて遣って来る。無知と云う名の蜜月は、精神の領域に自尊心を持たぬ者にとっては途轍も無く甘く、心地良い。


1690.
 合理的判断や倫理的判断は、欲望が充足されるその過程に於てのみその欲望に働き掛けるものであると、往々にして考えられ勝ちなのだが、そうではない。充足されんとするその欲望そのものが合理的か、倫理的かと云うことも当然問われて然るべきなのであり、昔から或る種の人々はそうしたことを、世人よりも遥かに根本的なレヴェルに於て当然の様に行って来た。それは卑小な欲望と、より大いなる欲望との間を天秤に掛け、どちらがより自分の生活にとって好ましいことかを判断する生き方であり、目先の欲望を充足させることで、より大いなる欲望が阻害されることも有り得るし、或いはその逆に、卑近な欲望を抑制することで、より大いなる欲望を充足させる可能性が拓けると云うことも有り得ることを理解した行動である。我々は選択肢の多い時代に生きているが、選択肢は心掛けひとつでドラスティックに増やすことが可能なのであり、またそれが出来る様な心的能力を備えた人々は、積極的にそうすべきなのだ。
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