1681.
 主観と客観と云うカテゴリーによって世界を規定する仕方には大別して四通り有る。1)全てを主観へと還元する方法、2)主観の及ぶ範囲の彼方に不可侵の客観が在るとする方法、3)主観と客観が何等かの運動によって統合され得るとする方法、4)主観は幻想に過ぎず、全ては客観で説明出来るとする方法。ヴァリエーションはそれこそ辞書が出来てしまう程沢山有るが、そのどれを選択するかは詰まる所、当人の気質に依るところが大きい。


1682.
 徹頭徹尾散文的な環境、巷間の意味に於いてもオルテガ的な意味に於いても、何処までも大衆である人々、どんな倫理観やポエジーが侵入して来ようとも頑なに撥ね返してしまうであろう強固な卑俗性―――だがそんな中にもそれ自身の存在の動揺は在るのだ。仮令私の目にはどれだけささやかな細波に過ぎないとしても。人々の中で私は圧倒的に孤立する。それは質の問題であり、質の相違を問題にし得る者が絶対的に少数であると云う意味に於いて、数の問題である。無縁の対立する諸勢力に包囲されても尚、私はそれらに対する理解を求める姿勢を崩そうとは思わない。それがせめてもの、一個の知性としての最低限の節度だ。


1683.
 フィクションに於ける高笑いとは、言い換えれば純粋な力の感覚の享受と発露の表明であるが、これが最も純化された形式が日本の怪獣映画である。従って、日本の怪獣映画が好きな者に、高笑いが嫌いな者が居よう筈が無い。


1684.
 自由の限度に関するパラドクスは古くから存在しているので、そこに見られるジレンマや矛盾が簡単に解けるとは思わない方が良い。と云うより、そもそもそこに一言二言で言い表せる単純明快な解答は出せないと云うことを肝に銘じておくべきである。現在の我々の認知的枠組の中では、自由と云う概念は常に緊張関係を孕むものであること、それを前提として議論を始めなければならない。知的な誠実さを多少なりとも心得ている人であれば、わざわざ言うまでもないことではあるが。


1685.
 他国からの侵略に対して敏感な輩は、得てして自国内の侵略に対しては鈍感なばかりか、進んでそれに加担しようとする。これを売国と言わずして何と言うのか。
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