1652.
 新しい刺激、更なる音楽、次の物語、見慣れぬ偶像………それらが日々消費され消尽され、摩耗して、風化して行く。回転車の中のマウスの様なその果てしの無い足掻きの中で、日々私は擦り切れて行く。エンジンは止めてはならないし、ブレーキを踏むことは許されていない。立ち止まって周囲を眺めてみる方法なぞ疾うに忘れてしまったし、またそうしようと云う気力が湧いては来ない。救済が日々新しく訪れるものだとしても、転落もまた日々新しい顔を覗かせる。


1653.
 嘗ては人間に成れたかも知れないもの共の残骸の群れに立ち混じって暮らしていると、自分がどれだけの空無に、本来埋めるべき欠落に取り囲まれているか、つい忘れそうになる。世界が可能性の卵であり、より深い恐怖の胚であり、現実態以前のもの共によって成り立っていることを、日常と云う名の腐食する暴力は忘却せしめる。その悍ましさに時として私は身を震わせるが、自分がまた衆愚の振舞いをしていることに気が付くや否や、その戦慄は救い様の無い失意へと墜落して行く。地獄とは一様性の普遍主義である。既知のもの共の周回する永遠である。私はそれを嫌悪しつつも尚、自分がそこにしか居られないのではないかとの絶望の安逸に身を委ねたいとの誘惑に時折駆られる。


1654.
 癒し難い我等の狂気を救済する為には、如何なる祝祭が必要なのか。我等の笑えない愚行の数々を代行してくれる表象達の誇張された狂宴か、静かに淡々と、このどう仕様も無い生存の日々を貫く倦怠を通りにばら撒く暴発か、それとも取り憑かれたる様に創造を求める一群の破壊行為か。自らの生の中で我等はその過剰に溺れる。溢れ出す存在の証に振り回され、途方に暮れてその行き先を問う。祈り虚しく乱れ飛ぶ力の叫びと充溢されざる虚無とに戸惑い、永劫の沈黙に慣れることを止めない。


1655.
 円環の時間のホラーキー構造の中を幾度も幾度も繰り返し生き続ける人々、直線状ではない、求心力の有る焦点としての過去を今日もまた生き続ける人々、過ぎ去ったもの共が何時になっても死なず、やがて消滅に至るまで散々擦り減らして活用される人々、その力はニーチェ的な態度を持ったものですらない。古来からの惰性と習慣が、進み続ける時間に抗して頑強に渦を巻き続ける。神話的時間の中を生き続ける人々にとって、「現在」は常に多層的であり、一義性を持たず、既に予定され、且つ予め先取られたものとして、時計が刻む時間とは異なる系列を進み続ける。
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