1648.
万物を叡智をして叡智たらしめよ、そうすればわざわざ君の貧相な頭を悩ませることも無い。君の仕事は、余計な出しゃばりをせずに、万物が在るが儘で在るのを静観するのを学ぶことである。
1649.
時間の渦の中で私は呑み込まれ、溺れてゐる。藻掻けば藻掻く程身体から力が抜けて行き、あらゆる意味が両の掌から擦り抜け零れ落ちて行く。悍ましい視線が天空を貫き、大いなる虚空が大地を揺るがす。そんな中私はこうしてペンを執り、「何をしているのか?」と問い掛ける―――誰に向かって?
1650.
個々の眼差しや口調や素振り等を通して、それらの背後に在る得体の知れぬものから絶えず欲望されていると云うこと―――その不安が我々を新たな変容した欲望へと駆らしめる。そこでは元々欲望されていた原-欲望を無力化することによって自らの欲望の依って立つ所を建立しようと云う試みが為される。常に急き立てられていると云うこと、自ら欲望する主体として行動することを求められていると云うこと、それらが我々をして積極的な不決断と無為、そして断固たる昇華へと追い遣る。「期待されるが儘に欲望する必要は無い」―――それこそが我々の世代のスローガンであり、基本姿勢ではあるが、そこで塞き止められた欲望(何ならリビドーや生への意志等、何でも好きに呼んでも良いが)は新たな形態の欲望を生み、一種の反逆として、否定項として、我々の存在様式を規定する。それは代償行為と呼ぶべきではない。そこで求められるものは、元来求められるべきであったものとは全くの別物であり、既に新たな欲望生産サイクルの一部であり、自律性を(とは言っても開放されたものではあり常に交渉の余地を残していて、それが根本的な不安定さの原因と成っているのではあるが)有している。我々は恥ずべき何物も無く、そうした在り方に堂々としているべきであり、同時にそれ以外の在り方を選択する自由を与えられていないと云う現状を、寧ろ積極的に肯定すべきである。我々は関節の外れた存在だ。望ましからざるものを望む存在だ。その事実を先ず直視して初めて、私は単に追い詰められた存在から脱出する糸口を掴む可能性を得る。
1651.
今の我々にに必要なのはちゃぶ台を引っ繰り返す力などではない、家そのものを引っ繰り返す力だ。ちゃぶ台を幾ら駄目にしたところで、肝腎の土台がその儘残っていると云うのでは、所詮はコップの中の嵐である。