1643.
 メシアン―――音楽が私の身体を切り刻み、深淵へと落とし込む。その空無と戦慄。


1644.
 先へ進む前に、私は先ず自分の実在を確認しなくてはならない。だがそれを保証してくれるものは誰か、何か。


1645.
 私がこの消費によって買おうとしているのは一冊の本でも一枚のCDやDVDでもなく、同時代性の感覚、自分がこの時代の、歴史の、大いなる変転の中の一隅に位置を占めていると云う感覚、これなのだ。私は私の存在証明が欲しいのだ、これは判っている。それが消費と云う形態を採る限り、それは取り尽くされる一方であって、「投資」と云う美名を借りたとしても、それが私の空虚を埋めてくれるには決して至らないと云うことも判っている。では私は何をなすべきか。創造によってのみ、人はそれに満足を見出すことが出来るのではないのか。自分の内なるダイモーンの声に耳を傾け、その欲しているところを解き放ってやることこそ、私が取り尽くされて空っぽに成ってしまうことを防ぐ為の唯一の手段ではないのか。私は何故書くのか、何故表現するのか。この認識論的懐疑と存在論的懐疑双方の責苦を受けている情け無い身に在って、私が取り得る唯一の対抗手段は、こうしてペンを執ることではないのか。そうだろうか、自問と、それに応える虚ろな谺が、常に背後から、いや正面から、暗がりの中で私を待ち受けている。私がすべきことは物語ることではないのか。私のこの疑念を書き連ねることではなく、この疑念に苛まれた生を、一個の完結を目指す体験として、只それとして在るが儘に呈示することではないのか。いや私がすべきなのは体験を伝えることではなく、読者に、想定された不特定の未知の他者に、一層それを体験させることではないのか。自問は続く。際限の無い堂々巡りの問い掛けが、今日も私の生を蝕んで行く。その苦痛の中に、正に私の生は存在している。


1646.
 日々、味わう毎に新鮮なこの戦慄………お前が居てくれる限り、私は退屈し切ると云うことが無い!


1647.
 戦慄を欠いた祈りは可能だろうか?―――少なくとも私には無理だ。深淵の存在無くして、畏怖の念と共に在ることは出来ない。
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