1632.
 恐怖を離れ難い人生の友と思えば、少しは怖れずに生きて行くことが出来る様になるだろう。


1633.
 給料:職場で発生する様々な理不尽、又は不合理な事象について、雇用者から被雇用者に支払われる口止め料の一種。主として現金と云う身も蓋も無い形式を採る。


1634.
 「私達も苦しんだんだから、お前も同じ様に苦しめ」と言うトラウマ教の熱心な布教者達は、その規模と相互ネットワークの鞏固さに於て、そこらの新興宗教の伝道者達よりももっとずっと性質が悪く、しかも避けるのが難しい。彼等が持ち出して来るのは「真理」ではなく「常識」であり、「真実」ではなく「現実」であり、「合理性」や「効率性」ではなく「多数性」である。彼等は必要性や必然性を盾にそれらの「事実」の受容を迫り、「常識」の名に於て行動することを強要し、「皆そうやって生きているんだから」が第一の世の中の基本定理なのだからと云う理由で、全てが正当化されていると信じ込んで疑わない。彼等の洗脳を解く為には、実に途方も無い程のエネルギーを費やさねばならないが、それは本来もっと建設的な方向に向けられて然るべきであったものである。我々は何と云う巨大浪費の時代を生きていることか。ほんの少しで良い、自分の頭で考えると云う、それだけのことをしてみれば呆気無く解けてしまう程の足枷を、何故我々は何時までも引き摺っていなければならないのだろう。


1635.
 私を買う/購えるものがこの世に存在するとしたら、それは恐らく私の言葉だけだ。金や権力や名誉ではない。


1636.
 日本語の場合、言葉はその根源に於て死者達を志向する。この場合の言葉とは無論書き言葉ではない、口に出して物理的な大気の振動として読まれる言葉である。「読む」とは即ち「詠む」ことである。「詠む」とは即ち「呼む」ことである。言葉はその根源に於て歌/詠唱であったのだろうし、「よむ」と云う行為に因ってこそ、声は初めて成立し得たのだろう。根源に於て、主体は必ずしも、いや寧ろ積極的に、必要ではない。先行するのは「よむ」と云う行為であり、そこに主体が欠落しているのであるから、その「行為」も寧ろ「出来事」「出来すること」「立ち起こること」と認識すべきであろう。人はそこで「よみ」をする。そこに「よみ」と云う現象が立ち現れる。「よう!」とよまれることに因って、そこに「よまれるもの」が生まれて来る。言葉・歌・詠唱・声によってよまれることからその存在を薄明の中から明らかにして来る領域、即ち「よみ」の国がそこに誕生する。「よみ」はそこに「クニ」を、即ち空間を生じさせ、ものごとの秩序を、軽重を、大小を、中心と辺縁を発生させる。「クニ」は「橋/端」「坂/境」「辻」「道」等の場所、即ち名前を持った、同定され得べき意味の在る場所を生じさせる。そこは死者達の、同定されたもの達の領域であり、そこで初めて生と死の観念が分たれることになる。そこは認識された時点で「立たる=祟る」ことが前提とされる領域であり、「立たされたもの共」は「立たってしまったもの共」として、それと知った者の目には映る。人はその「立たっているものを突き付けられた者」としてそこに成立し、ここで初めて「誰か」が姿を現す。生者は死者よりも後に生まれる。―――時間的に、と云う意味に於てではなく、物事の順序と云う意味に於て。言葉はその根源に於て、彼等死者達のものであり、我々はそれを聞くものとして初めてその存在を許されている。
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