1583.
 周囲に流される情報の質と量は、その対象の持つ力───権力の大きさに比例しているとは限らない。例えば「危険」な、或いは戦略上「不適切」な真相については、寧ろ反比例の関係を結ぶことだろう。力を持つ者達は通常事の真偽に関わらず、「情報」、より正確な言い方をするならば「事実についての情報とされるもの」の元栓を自由に閉じたり開けたり出来る力を持っているものであるが、それらは容易に権力に伴う「責任」と云う高邁な理想によって糊塗することが出来る。「釈明」や「言い分」を「説明」に置き換えても、無反省な大多数の者達は伝えられる「事実」が脚色されたものであることにすら気が付かない。そう云うものである。


1584.
 理想は、抱いても宜しい。が、余り高過ぎるのは駄目である。それが許されるのは子供か認められた「天才」か、狂人(より良市民 (、、、 )的な言い方をするなら、「変人」)だけだ。凡人はそこそこの常識的な枠内の理想で満足しているべきなのだ。


1585.
 社会全体が軍隊化したら、そりゃあ平和に成ることだろう。文句を言う奴は黙って排除すれば良いのだから。だがそんな平和が果たして「平和」の名に値するものだろうか。


1586.
 何も書かれていない白紙を前にして、私の筆は止まる。誰かの視線が———宛名は空欄の儘、誰に向けられているかも判らない、記名されているのか無記名なのかすら判らない眼差しが、近くに臨在していると云うこと───その事実ひとつが、私の舌を切り取って唖にし、私の精神を萎縮させ、魂を細切れにしてひとつの全体を成さしめまいと妨害して来る。他人が私をピン止めにしようとしていると云う経験を、今正に私は経験している。他人の完全なる死滅を願わねばこちらが自由ではあり得ないと云う状況は、確かに存在するのだ。


1587.
 実に多くの事柄について、私が、日本の「常識」は世界の非常識だと考えるのは、何も私が、世界中の他の国々の人々の暮らし方、国家や組織の在り方を見て来たからではない。社会契約を交わした市民社会の概念に照らしてみれば余りにも奇ッ怪な慣習や行動様式が、隠されもせずに白昼堂々と横行しているからだ。比較された事実の確認は、大抵その後で付け加えられる。
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