1580.
これが本来の意味での苦行か何かででもいあったならば、まだしも救いが有っただろう。何故ならそこには、その果てに何か得るものが待ち受けているかも知れないと云う期待か、それが己が成長する為の重要な踏み石と成るやも知れないと云う希望が有り、未来への目的意識と活力を維持し続けてくれるからだ。だが、今のこの生活は只単に辛く苦しいばかりで、その先に何等広大さや深みの有る展望を望めないばかりか、手許にその成果として残るのは唯惨めさと馬鹿馬鹿しさだけなのだ。一日一日、一時間一時間、と、私の人生はドブに捨てられて行き、その取り返しの付かなさを嘆く暇さえ与えられずに、真っ暗な奈落の底を目指して、真ッ逆様に落ち込んで行く。


1581.
以前に書いたものを不図読み返してみて、その余りの下らなさに頭を抱える。確かにこの頃私は下らない生活しかしていなかった筈だから、書かれて残っているものがそれ相応に下らないものだったとしても別段驚くには当たらない。だが、下らない生活からは下らない作品しか生まれ得ないとするなら、余りにも救いが無さ過ぎるではないか。


1582.
日本の所謂「社会」——「社会人」などと言う時の「社会」——は、トラウマを拡大再生産する場ではないかと思うことがよく有る。旧帝国陸軍の陰湿な閉鎖的空間を思わせる上下関係———上には諂い下には粗暴、自分達が上の者達から見れば使い捨てなの道具であることが解っているから、下の者達もモノの様に扱い、虐げられていた者達も、何れは年功序列のエスカレーター式に階級や地位が上がって自分達が力を持つ段に成ると、今度は自分達がされたことを下の者達に対してさも当然の権利の様に、寧ろ恰もそれが新人達に「世の中」を教え込んでやる教育であり、彼等の為に成ることとしてやっているのだと云う態度で行う様に成る。出来の悪い悪夢の様な悪循環である。だがこんな慣習(こんなことを「文化」「伝統」などとは呼びたくはないものだ)はそう長くは続くまい。そう思うのは何も人々がよりまともで健全な理解力を発達させて来ていることに期待するからではない。それよりも、そうした再生産の捌け口であった序列の移動と拡大成長が、今となってはこの先殆んど望むべくもないからであり、ささくれた心荒む人間関係の中にずっと置かれていようが一向に構わないと云う鈍感な、或いは長いこと傷付けられ慣れて来た人々を除けば、こんな殺伐とした空気を呼吸し続けるのはもう沢山だと思うように成るに違い無いからだ。だがこれには勿論別の可能性も有って、加虐/被虐の関係性が、流動性の減少によって寧ろ局所的に固定化し、より一層穏微で救い様の無い形態を取ることも有り得る。例えば「誰でも良いから人を殺したい」などと云う感情を育てるのに、そうした殺風景な荒野は実に恰好の土壌であり、真っ当な人間らしい暮らしを送りたいがどうにも今居る泥沼から抜け出せない、と云う人間であれば、状況さえ整えば多くの者が容易にこの陥穽に落ち込んで行くであろうことは想像に難くないのである。
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