1541.
私の悲鳴は呑み込まれてしまったのだろうか。悲鳴を上げたかどうかすら、今となっては定かではない。


1542.
私のことを冷淡だと人は非難するが、冷淡にも成ろうと云うものだ。この全く訳の分からないにも関わらず盛んに私を巻き込もうとする些事の大軍を前にして、揉み手をして愛想笑いのひとつでもしろと言うのか。真っ平御免である。


1543.
逆説的な言い方に成るが、私が充実し確定した実体の有る存在として存在するのは、境界の上で揺らぎ、引き裂かれ、解体されて渦に呑まれている時だけだ。それ以外の時間は全て夢幻、実在へ落とす影の幾重にも希釈されたもの、切れぎれの譫言として呟かれた脈絡に乏しい妄言に過ぎない。迷い、悩み、呆然と立ち尽くすことこそ、私が私たる由縁であって、この無期限の未決囚人と云う身分こそが、私が唯一確言出来る私の肩書きであり、地位であり、身分である。


1544.
実存主義と或る種の怪奇幻想小説は似たところが有る。どちらも、平板で陳腐なものと化した存在に深みと密度を与え──場合に依っては「回復」や「取り戻す」と云う表現を用いても良いが──生の強度の充実を図り、世界には全体としての意味が有るのだと云うことを何とか証明し、或いは物語ろうと云う試みる。そして思想としての思想としての実存主義の大半が袋小路に行き詰まり、或いは支離滅裂な分裂状態へと離散し、或いは壮大な──少なくとも自分ではそう思い込んでいる──幻想を頭から被ってぬくぬくと自閉してしうまう様に、怪奇幻想小説はフィクションと云うその性質上、常に倒錯した形でしか真理に接近し得ないと云う限界を抱えている。真理の開示はここでは仄めかしや暗示、逆説や象徴によって行われ、言語を用いて描写される媒体であるにも関わらず、真に重要なことは文中には決して現れない………逆に言えば、そうした限界を露にすることが出来る作品、読者にそうした限界を感じさせ、触発し、挑発し、誘爆を惹起する作品───そうした作品こそが、普遍性への渇望に対し応答を期待し得る作品、近代と云う限定された状況の中でではあるが、局所的な時代や国籍を超えて真に人の魂を賦活し得る作品、存在の触媒の触媒として読者の共感を誘い、或いは憧れとして、或いは導きとして機能し得る作品であるとも言える。


1545.
何故私は主として悪夢ばかりを──悪夢の様な情景ばかりを、と云う意味であるが──執拗に紡ぎ続けるのか。それは悪夢しか救済が無いからだ。自分が生きていると実感する為に、存在の強度を上げてくれるものが悪夢以外には殆んど無いからだ。経時的な耐性を持ったより真実に近い体験としては、悪夢位しか手近で手に入るものが無いからだ。持続性に優れた——と云ってもその本性上、日常的な意味に於ては勿論持続性に優れてない筈が無いのだが——解脱や悟りに到達し得るのであれば、それが最善かも知れない。だがどうもそれが無理らしいと判ってしまっている以上──これもまた如何にも短気な思い込みに過ぎないのかも知れないが──次善の策で間に合わせるより他に仕様が有るだろうか?
inserted by FC2 system