1530.
人間であることを悟られてはならない。一個の精神であることを気付かれてはならない。自由とか尊厳とか知性とか礼節とか倫理とか理想とか、そう云った類いのあらゆる世迷い言を抱え込んでいることを知られてはならない。暴露/剥奪する側とされる側、この関係は原則的に非対称的であり、アンフェアであり、恥辱は一方的に後者に課せられる義務である。何せ前者はそもそもが恥辱以下の代物であり、その余りにも生々しい現前によって何処にも行き着かないどころか何処かへ向かうことさえ知らない徹底して無意味な〈もの〉へと零落してしまっている撒き散らされた塊であり、確かに食べたり眠ったり、場合に依っては歩いたり喋ったりするかも知れないが、そうして見た目が人間に近い分、より心騒がせられる、性質〔タチ〕の悪い公害である。一方後者はと云えば、その本性上常に向ける眼差しに対してそれと対に成るものとしての向けられる眼差しを一緒に抱え込まざるを得ず、仮令その視線の先に在るものが死物であると否とに関わらず、ややこしく執念深い関係の網の目に捕われざるを得ないのである。しかも尚困ったことに、この暴露/剥奪はその質乃至程度を問題にしなければ、そこら中何処にでも転がっているし、しかも肝心なのは現に目の前で暴露/剥奪が行われているか否かではなく、そうした暴露/剥奪が行われ得る (、、 )地平上に自分が存在していると云う事実それ自体なのであるから、この二重の意味での悩ましい厄介事は、凡そ人間的なものが関わるあらゆる時空に偏在すると言っても良い。生きられる生に於ける意味の没落の実例を見たければ、わざわざタイムマシンでアウシュビッツやダッハウにまで足を運ぶ必要は無い。暴露/剥奪され得る主体が在り、鏡の迷宮にずっぷりと嵌り込んだ眼差しが在る限り、何処でだって地獄に成り得るのであり、且つまたその一事を由縁として、現に地獄であるのである。


1531.
或る種の怪奇幻想小説は、そもそも言表し得ないものを言語化しようとする試みである為、始めからその挫折を宿命付けられている。しかしその言表可能域の限界は作者の想像力の発達と共に、恰も膨張宇宙に於ける事象の地平線の如くに凡そ際限無く拡大して行く為、現象学的還元のプロセスに終わりが無いのと似た様な意味で、イタチごっこの如き無限遡行を続けて行くことをその本性上定められている。その上それは自らの試みが破綻する地点を自分で設定せねばらならず、恣意的な裁量が許されている分、自由と云う名の重荷を背負い、自らの未熟さに因って作品の完成度を著しく損なわれてしまうかも知れないと云う危険に常に頭を悩ませなくてはならない。それは自らが描き出す境界領域の質に依って笑えない喜劇にも粗悪な模造品にでも成り得ることを覚悟しておかなければならず、にも関わらず限界のずっと手前でうろうろしていた儘で気の向いた時にだけ一足跳びに限界の向こう側へひょいと気軽に遊びに行く様な真似は厳重に禁じられているのであって、時代の制約に因って作者と読者との間の懸隔に多少の融通を利かせられることは期待しても良いといは言えるものの、本質的に、何処から先が天球なのかを手探りで自分で決めなければならないアトラスの如くに、何処かどうしても奇妙な倒錯的印象を、読者や、外部の観察者、或いは充分に自覚的な作者にも与えるものである。それは実に沈黙を相手取ってのチキンレースとでも云うべき行為であって、一切の証言を拒絶し、また否定する空白を何とかしてこちら側に取り込み、しかもその力の強度を成る可く損ねないように(詰まり無力化せずに)しておこう、と云う凡そ徒な望みに、それでも全力を挙げて賭けつつ、不可能を飼い馴らし、完全に制御することは叶わないまでも、せめて接近可能なものにしておこうと云う不遜な冒瀆である。しかもその際に故意にハードルを下げてしまっては本来の目的に反することに成り、寧ろどれだけハードルを上げられるか、その質を高め得るかが要求されるのであって、ことことからも本質的に実に矛盾した、分裂した試みであると言わざるを得ない。天井を押し上げつつも同時に引き下ろさなければならないその滑稽さは、自分の襟首を掴んで自分の体を持ち上げようとするミュンヒハウゼン男爵のそれに比すべきものであって、その混乱と自家撞着振りは、若し一滴のユーモアかさもなくば一振りの冷笑の手持ちが無ければ、痛々しいまでに耐え難いものとなる。
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