1521.
昔の西部劇に出て来る”Indian”と云う単語を「先住民」と訳すが如き言葉狩りは、それを目にする人々が、批判能力も持たぬ低能者であり、こちらで一切の面倒を見てやらねばならぬ右も左も分からぬ幼児である、と見做すが如き侮辱的な所業であって、それ自体がひとつの差別と言っても良い。それは過去を希釈し異化して書き換えることによって、差別と云う事態と、差別と云う事態に対して嫌悪感を抱く(少なくとも、抱くべきだと云うことになっている)我々との間の段差を埋め、本来そこに存在しているべき差異を見えなくすることによって、そこに当然生じて来なければならぬ筈の違和感を解毒し、骨抜きにしてしまう。差別の撤廃へ向けて言葉遣いを改善しようと云う試みは、一定の範囲内に於ては行われて然るべきだろう。が、それは差別を克服し、解消しようと云う方向へ向けて働くべき努力であって、差別を不可視化し、水面下に潜らせ、その存在自体を隠蔽し、抹殺しようと云う方向へ向けて働く思考のホロコーストであってはならない。差別を無くすには先ずその存在を認め、事実として認知することから始めるべきであって、事実を否定し、消毒し、無害にしてしまうことから始めるべきではない。未来を志向する営為が過去の改変の上に成り立つべきではないし、現在の願望をひとつの傍若無人で万能の支配力として濫用することは、人を無菌室の中に閉じ込める様なものであって、免疫を付けさせなければ何時まで経っても抵抗力が生長する筈は無いのである。

 我々が差別と云う事態をひとつの対象として見る時、対象と同化する必要は無いし、寧ろそんなことは有り得る筈が無いのだが、肝腎なのはその事実に本人自らが気付くことであって、双方の差異の衝撃を真っ向から受け止めて、そしてその衝撃の抗体を作る試みこそが為されなければならない。だが、ここでもまた差異を強調し過ぎることは新たな抑圧や圧殺に繋がるのであって、本当に感じ取らなければならない衝撃は、双方の同質性を認知した時に初めて生まれて来るものである。我々は(こうした思考座標軸を用いる認知的限界内に於ては)対象の距離の取り方から生じる相克と緊張のバランスの裡に生きているのであって、アリストテレス風の言い方をすれば、そこでの「中庸」を探すことこそが我々の倫理的使命であって、諸個人から成る社会の中に生きる者としての在るべき態度である。


1522.
「頭痛持ちでない奴に私の気持ちは解らない。」

 「甲氏は私と同程度の頭痛持ちだが、奴には教養が無い。」

 「乙氏は私より酷い頭痛持ちだが、奴には想像力が欠けている。」

 ───或る種の頭痛持ちの頭痛には、こうやって人を意固地にさせる成分が含まれている。それがセロトニンの作用に因るものか、ストレス性のものか器質性のものかなどは取り敢えずどうでも宜しい。ズキズキと疼く頭を頂いて目を覚ます者にとっては、目覚めること自体が呪いであり、思考を働かせることなどエヴェレストに登る様なものであり、世界の広さや深さに理解を示せと言われるのはパラシュート無しで飛行機から飛び降りろと言われるのにも等しい。苦痛は人の精神を萎縮させ、矮小化する。頭痛はその中でも比較的みっともなさの少ない部類に属し、惨めさよりも寧ろ憤りを喚起するものではあるが、可能性の豊穣さに対して心を閉ざさせ、狭い檻の中に自ら閉じ籠もらせようとする点に於ては、その害毒は毒蛇のそれにも等しい。林檎を食べた後のアダムは頭痛に悩まされただろうか? その後の展開を見る限りでは、その可能性は十分に有る。一気に拡大され複雑化した展望に対して、ちっぽけな頭脳が拒否反応を起こしたのだ………いや待て、私は何を言っているのだろう?
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