1518.
ヨーロッパの一部の知的エリート達の真似をして、韜晦趣味のレトリックの海に溺れてしまいたいという衝動に駆られることが有る。文章の背後に存在の大いなる連鎖を認めず、言葉がそれ自体で独自の宇宙を展開する人文的な美事な技芸──或いは職人芸──の快楽に身を委ね、気の利いたヒネリのひとつも無からちょろまかして来てみたくなる。果てしの無い諸概念の遊戯に耽溺し、一部の暇を持て余した秘密結社の会員にのみ許される知的な円舞会に参加し、目的地の無い自己陶酔的な逃走に身を投じてみたくなる。だが単純なるもの、古々しきもの、力強いものへの私の嗜好が、或る地点で私を押し止め、自らの文体のその武骨さ、稚拙さ、粗雑さ加減に対する恥じ入りをも蹴散らして(或いは、洗練さの欠如に関する無能力に対する何等かの言い訳を考え付いて)、小手先の、表層の、地上的な言説の中に転落して行くことは、より短命で限定的な流行への頽落に他ならないと言い立てて来る。心の深い所から発せられるのではない極度に人工的な言説は、より普遍的なもの、より永遠に近いものへの裏切りに他ならず、時の試練の前にやがては散り行く一時の徒花なのだと訳知り顔で忠告をして来る。音楽に喩えるならば北爪道夫も新実徳英も素晴らしい、だがお前の手本とすべきなのは早坂文雄や伊福部昭なのであって、自らの本性に合わぬ服を無理して着てみたところで、どうせ碌なことにはならないのだと説教をして来る。

 が、こここまで思いを巡らせたところで捻れが生じて来る。全体を感じ取る瞬間が有る。仮令それが客体視した時に狭隘で偏向したものだったとしても、その感じられた個々の全体はそれ自身の存立の権利が有るのではないかと云う疑問が常に起こる。それはひょっとして、あらゆる全体を包含する視点からその都度立ち戻り、浮遊し孤立した各々の全体を同一の地平上に着させ、隅々にまでパノプティコン的な監視の眼差しを向けるのが面倒だからと云う、怠惰から発しているものかも知れないし、既に自らが置かれる環境を分裂させ、互いの間に親密な交流を欠いた儘同居させる、2ちゃんねる的パーソナリティが定着してしまっている為かも知れない。何故何かを考えたり感じたりする時に、その都度あらゆる事柄にまで思いを馳せ広大な関連付けを行わなくてはならないが、何故既成事実として成立してしまっている全体感取にひとつひとつ条件を付け、箇条書きにして骨抜きにして陳列棚に並べなくてはならないのか。閉じられた身勝手なコンテクストの中で自由気儘に踊ることが何故いけないのか。世界の多元性を単純に享楽して何が悪いのか………。


1519.
現代の日本でポストモダンを語ることは、帝政期のロシアで社会主義を語るのにも等しい。どちらも必要な前段階をすっぱりと欠いている。


1520.
平仮名と云うものは涙に似ていて、論理的な対立も理念上の葛藤も何でもかでも一緒くたに混ぜこぜにしてしまって、あやふやのぐだぐだにしてしまう。「もののあはれ」とは即ち情による占拠であって、合理的な立論を許さない極めて閉鎖的な、心情的秘密結社を形成するものである。それに対しては違和感や悍ましさをはっきりと表明することすらタブーとされ、全てを同一の美意識の下へ吸収させてしまうことに馴染めない人間は、立ち向かって無残に踏み潰されるかこそこそと逃げ隠れるか、さもなくば心を引き裂かれるむごいたらしい芝居を何とか続けて行くしか無い。あいうえおはハーケンクロイツと同類である。そんなものに個人の心を蝕まれることなぞ我慢がならないし、況してやそれらを共同体の基本原理とすることなど言語道断、問題外である。我々はその情調をも含めて我々自身の多様性を重んじ、尊び、確保しておく必要が有るのであって、自らの画一性の有効範囲に酔い痴れる者は、自らの骨や内臓のひとつふたつ無くなっても、いや寧ろ無くなった方がより健全に暮らせると考える様な、トチ狂った異常者である(無論のこと、そうした者達もまた、生存を許されねばならないと云う逆説を、我々は受容しなければならない。だが、彼等が他者を排除しようと実力行使に乗り出した時には、そこで適切な闘争の開始を認めなくてはならない)。
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