1513.
知と無知と云うふたつの海に挟まれて、我々はずっとどっちつかずの状態の儘彷徨っている。絶えず双方から侵蝕され、縮小と拡大を繰り返し、或いは上書きされ或いは別名保存され、或いは巧妙に書き換えられてその形状を変化させて行くその広大な境界領域に在って、我々は原理的な未決状態の裡に不安定な儘居座り続けなければならないことを宿命付けられている。その地平は、一個の精神がすっかり見渡してしまうには余りにも広過ぎるが、一個の魂の希求に応えるには余りにも狭過ぎる。そこで我々が何とか仮初めにも落ち着きを得る為には、様々なものを無視する術を身に付け、それを身に付けたこと自体をすっかり忘れてしまう程にすっかり自分のものとしてしまうか、さもなくばひたすら謙遜と忍耐の美徳に固執し、それが時に敗北と屈従の結果に他ならないと見える時が有っても、決して挫けずに黙々と自らに出来ることをひとつひとつこなして行くしか無い。


1514.
絶対の恐怖を描く為には、それは必然的に「名付け得ぬもの」でなくてはならない。名付けられた瞬間から、対象はその絶対的な魔力を失う。「これこれはこれこれである」と同定されたその時点から、それは常に現前し、間近に迫り、接近し包囲して来るものと云う性格を失って、突き放して見ることが出来るもの、冷静に観察することが出来るもの、一歩退いて客体視することが出来るものへと堕してしまう。言葉は魔力を持つが同時に魔力を剥奪する力をも持つ。知られたその時から対象はその恐怖の絶対性───即ち、如何なる時点、如何なる観点、如何なる局面から見ても、常にその本質を失わず、またそれ自体で自らの成立根拠と成って他の説明を必要とせず、理由も原因も目的も構造も、全て二次的、三次的なものでしかないと云う神々の如き自足性───翳りを生じさせ言い訳や弁解を始めて自らを弁護しようとし、日常的な世界の秩序の中───区分けされ、ラベルを貼られ、きちんと整理整頓された理解可能なものどもの群れの中に自らの正当な居場所を見付けると云う、何とも本末転倒した倒錯的な試みを開始しようとする。知は力であり、理解は超克である。無残な轢死体も訓練を積んだ検死官の手に掛かれば只の検死対象、一定の構造を持った肉の塊であり、奇怪な虫の群れも経験豊かな昆虫学者にとっては興味深い観察対象である。知ることによってその恐怖を減じられない存在物など存在しない。知ることによって我々は対象を捕え、縛り上げ、檻の中に入れて、何れは瓶詰めにしてシールを貼る為の用意をするのである。未知のもの、名前の無いものは、正にそれが未知のものであるからこそ恐ろしいのであって、それが正常な世界の埒外に、我々の意識が包摂し含有しようとするところのもの全ての領域から外れた所に存在していると云う事実そのものが、我々をして慄然たらしめるのである。恐怖とは常に余処よそしく、見慣れない、外部のものであって、そしてこれからも余処よそしく見慣れない外部のものであり続けるであろうと思われるものでなくてはならない。それは言表することも名付けることも、名指しすることも、分析したり解釈したり例示したり介入したりすることの出来ぬものであって、精々が唯「それ」として指示する───と云うより仄めかしたり暗示したりすることが出来るだけのものである。永遠に「解釈を許さぬ」ことがその本質、その生命であって、それに対して我々は膝を丸めたり戦慄いて顔を背けようとしたり、絶望して自失状態に陥ったり、屈伏して正気を失ったりすることは出来るかも知れないが、馴れなれしく近付いて良く見知ったものであるかの様に肩を叩いたりは決して出来ないものである。

 知解は希望であり、不可知ではなく未知の未来であり、そこにこそ我々が容易に絶望を説いてはならぬ由縁が存在する。だがそれらは同時に不可知の否定、我々の意識が決して照らし出すことの無い、底の知れぬ広大な闇の領域の否定でもあって、皮肉なことに正にそこにこそ我々が絶望しなければならぬ由縁もまた存在している。あらゆるものが明証され、曝け出され、余す所無く照らし出された昼の世界───そんな所に住まわなければならないとしたら、我々はそう遠くない内に発狂してしまうだろう。その情け容赦の無い圧力を我々はまた「恐怖」と呼ぶことは出来るだろうが、それは決して魂を賦活することの無い、魂を枯らせ、萎えさせてしまう一方の恐怖であって、やがては大いなる倦怠と白々しい絶望に至るしか無い、何処までも平板な、フラットな恐怖である、それは全く逃げ道が無いと云う意味では絶対的と言えるかも知れないが、ネガの恐怖に対してポジの恐怖が抱える絶対性とは、絶対の閉鎖性を意味するものに他ならず、絶対の開放性、未規定性、不確実性、即ち眩暈のする様な自由を意味するものではないのである。それは我々の想像力の首を絞め上げ、窒息させ、呼吸を奪い去ってこの世に取り尽くし得ぬものなど無く、枚挙されざる事象など存在しないのだと我々に思い込ませようとする。そしてこの世界には予測の付かない裂け目など無く、現実と云う織り布は破れを見せることなど無いのだと断言する。そこではあらゆる恐怖はその深淵を奪われ、この世界そのものを破壊する力をも秘めたその強大なる牙を抜かれ、あらゆる根源的な可能性を却下されて、有り触れたもの、そこら辺にごろごろと転がっているもの、誰でも、少なくとも誰かは良く知っていて、その正体も限界も判っているもの、厄介で面倒かも知れないが、何等かの対処法が全く存在しない訳ではないものへと転落させられる。それは知と未知との抗争に於て知が一方的に問答無用の勝利を収め、そしてもうこれ以上開拓の余地も無ければ探究すべき海原も広がってはいないのだと云う勝利宣言──人間精神の尊厳にとっては寧ろ敗北宣言──を行おうとする。我々はそれに対して為す術も無く降伏し、完全に武装を解除して、軍門に下ることを要求され、そこに永遠の平和が――凍り付き、真空パックにされた、成長することも進化することも無い絶対零度の平和が支配することを認めることを余儀無くさせられる。我々は抗うことは疎か悲鳴を上げることすら許されず、その悍ましい安寧の裡にひたすらゆっくり死滅して行くことを義務付けられる。我々は既に疾っくの昔から死んでいるのであり、これからも死に続けるのであり、それこそが真実であり、真理である───そんな妄想が、想像力の枯渇した頭脳の描く未来図が、我々の宿命をしてその覇権を不動のものにしようとする。知は我々の力を拡大し、生命を充実させ、精神を勇気付けるものである、だがそれと同時に、我々の死刑執行人でもあるのであり、過重な税の取り立てに来る血も涙も無い役人でもある。我々はそこに風穴を開け、隙間を作り、取り零しが溢れ出すようにしなければならない。でなければ我々は只呆然としてこの世界が勝手に歩んで行くのを眺めているしか無いのであり、単なる死よりも唾棄すべき発展無き静止状態の裡に、己が身の惨めさを噛み締めるしかすることが無くなってしまう。未知とは既知の過剰に対する反抗であり、そして不可知とは決定済みの世界に対する猛然たる反逆である。我々は不可視の領域を想像することを止めてはならない。光の届かぬ深淵に想いを馳せることを諦めてはならない。地上に無いものへ目を向けることを恐れてはならないし、その途上で戦慄することを躊躇ってはならない。

 知を求めねばならないが同時に非知を求めよ、知られたる事柄が有れば知られざる事柄にも同じ位関心を向けよ、我々は貪婪に知り、理解し、既知のもので自分達の周りを埋め尽くそうと欲するが、それと同時に我々にはまたそれを超え出るもの、自分達に手の届く領域からは決して到達し得ないものを求める衝動が眠っている。知ることによって以前の不可解のヴェールは取り払われ、より拓けた明るい平原が目の前に広がって行く。がそれと同時に新たな地平線の向こう側が我々を幻惑し、差し招き、恐怖せしめる。そして我々はまたその先へ向かって進んで行くが、同時に更にその先にまで新しい地平線が待っていてくれることを期待しもする。我々がこの逆説的ともどっちつかずとも見える一見矛盾した営みに、悪夢の様な、或いは喜劇めいたマッチポンプ式の、終わりの無い試みに於て達成しなければならないのは、常に自由の余地が残されている確認することである。自分達がまだ夜を忘れておらず、従って正気を失ってはいないと云うことを確かめることである。それは難しい。人類の可能性が広がってそれは容易になるどころか、却って知の席捲のお陰でどんどんと難しくなって行く。だが我々はそれを求めることを止めてはならないし、また止められもしない。何と悲劇的で空しいことか。大切なのは信念を持つことである、全体の展望を見失わないことである、これら一切の延々たる繰り返しに飽きずに、実践を怠らないことである。我々は何よりも先ず生きねばならない。それも、生きた精神として生きねばならない。その為には生を凍り付かせると思えるものども、その各々と正面から向き合うことから手を抜いてはならない。常に振り返り、吟味し、それを全体に根付かせることをサボってはならない。ひとつの精神の生を生きるべきであり、同時にそれを超えた無限に身を置いておくべきである。この引き裂かれた情況を引き受けることから逃げてはならない。この混乱と狂騒の途方も無い馬鹿馬鹿しさと峻厳さから目を逸らしてはならない。この飽く無き足掻きが自分達の存在を紡ぐことから出発することを、我々は終局に於て拒んではならない。
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