1506.
すべきことは山程有る筈なのに、何も手に付かない。片付けなければならない仕事が途方に暮れる程控えている筈なのに、どれひとつとして先に進められない。焦りばかりが空回りして、やがて疲労と倦怠とが、無為と怠惰へと堕して行くまで不様に混淆して行く。熱っぽい気懈さが全身をずっぷりと重く濡らし、力無くだらりと肩を落とした自嘲が萎びてよれよれに成った惨めさをずるずると引き摺り乍ら、当て途も無くうろうろと彷徨い続ける。無能と無気力を溶かし込んだ暗澹たる泥濘が、擦り切れたにたにた笑いと共にぼんやりした眼差しで、曇り切って伸ばした手も見えない靄の中を眺め渡し、腐って朽ちて行くばかりの不活性状態の底へと沈み込んで行く。言葉も旋律も何時の間にかその魔力を失い、眠るでも目覚めるでもなく、どちらともつかない曖昧な未決の名無しの亡霊が、ぐったりと頂垂れて混乱した頭と慢性的な鈍い頭痛とを抱えた儘、死人の生にしがみつくでもなく、またそこから逃げ出すでもなく、惰性に任せてだらだらと淀みの中でぐるぐると渦を巻いている。

 私は屑だ、紙屑だ。曾てはそこに立派なことや高尚なこと、気高いことや深遠なこと、美しいことや力強いことが書かれていたことが有ったかも知れないが、今はくしゃくしゃに丸められ隅っこの方に打ち捨てられ、無残な足跡や汚れもその儘に、誰ひとりとして顧みる者も気に懸ける者も無い、最早すっかり忘れ去られ、在るでもなく在らぬでもなく、仮令在ったとしても在らぬも同然のものとして、永遠の薄明の境をふらふらと只漂っている。大いなる悲嘆も絶望も、後悔も恐怖も、或いは歓喜も希望も、今の私には縁遠い対岸の幻、確かな手触りの有る意味は皆私の横を素通りして行ってしまい、振り返りもせずに、私の手の届かない未知の饗宴の卓へと急ぎ行く。私は既に使い捨てられたもの、一片の価値も無い、通り過ぎられたもの、それどころか、そこに存在しているかどうかさえ定かならぬ影であり、時の風を受けて為す術も無く只ころころと転がるだけの空しくちっぽけな浪費の余剰である。それは刹那の錯覚かも知れず、また目覚める直前に見た思い出せない夢かも知れない。それは現実と呼ばれる張りボテと書き割りで出来た仮設の舞台で演じられた一幕ものの三文芝居だったかも知れないし、また私が曾て譜面に書き起こす前に先取られた失望から結局見捨ててしまった楽曲の断片かも知れない。そこには為に成る教訓も感動させられる劇的展開も無く、深淵を覗き込ませる驚異も、全てを凍り付かせる戦慄も在りはしない。唯々ひたすらに無駄に書き散らされた譫言の束が、文字とすら呼べぬ単なる徴表の連なりが、その愚かしさを剥き出しにした哀れな名残りを留めている。敗残の風景、一面のっぺりと広がる廃墟である。私は既に生きられてしまったものであり、これ以上生き様が無いものであり、従ってそれまでも生きていたことが有るとは言えぬものである。私は無名の、無記名の不渡り債権であり、そもそもの始めから失われた未完成のヘボ詩であり、遂に一度も心の底から恐怖することの叶わなかった気紛れな追憶である。


1507.
日常の疲労から来る苦痛は、精神の過剰から来る倦怠を追い払ってはくれるが、鈍く、小さく、卑俗であるにも関わらず着実に蓄積して行き、結局は精神をズタズタにしてしまう。それは人間の尊厳を抑圧し、その抑圧によって反発を誘発すると云う点では進歩に大いに利するところは有るのだが、その長く執拗な抑圧によってやがては尊厳の磨耗消失を招くことになり、これは全く愚劣な退歩以外の何物でもない為、我々は細々とした些事に何時までも囚われているべきではなく、そこからの解放は何にも増して人類の次なる、いや今目指すべき目標であると云う切実な認識は、多くの者に共有されてはいるが、それらは余りにも徹底した視野狭窄を殆んど盲目的な「必要」と云う言い分によって、ひとつの意志への収束し、具体的に統一された(しかし同時に多様な)行動へと纏まることを妨げられている。だが人類がみみっちい愚行をこれまで何万年と積み重ねて来たからと云って、その事実はこれからもそうした愚行を繰り返すべきだと云う口実には成らない。野蛮と怠惰へと向かう性向を自然のものとして全肯定するのは、我々自身の可能性に対する冒瀆である。我々は我々は我々の精神を閉じ込めようとする嫌らしい自足性を誤魔化して、自分達の近視の目に映るこの世のあらゆる事態に侍らせようとするべきではないし、可能な限りそうしたことを堂々と行おうとする(けだもの )共の庭を潰して回るべきであ。我々は新たなる脅威と驚異とを孕んだ未来を前にして擦り切れているべきではないし、また人々の頭を押さえ付けようとするあらゆる諸力を、漫然と許す様なことはしてはならない。
inserted by FC2 system