1501.
連れ立って地獄の底へ跳び下りる。余りの底の浅さに足を挫く。そして尻餅を搗いて身動きが取れなくなる。万事がこんな調子だ。恐怖すること自体を怖れる社会に於ては、並大抵の決意では深淵には辿り着けない。


1502.
有り得べき別の世界を夢想し慣れている者にとっては、現実の世界は余りにも不完全で、恣意的で、偶然性に左右され、恐怖と悲惨とに満ち、非合理な上に不条理で、徒な由無し事や偏見や思い込みに溢れ返り、詰まらぬ些事で埋め尽くされ、悪意と愚昧が跳梁跋扈し、苛立たしい程に労多くして、呆れる程に頑固で拒絶的で融通が利かず何処までも不実にして不毛である様に見えるものだ。各人が挫折を感じ取る点は多種多様で、物理的、生物的、生理的、社会的、心理的、様々なレベルでの認識面に於てそれぞれに対応する障壁が存在する。それらの障壁の克服可能性もまた各々がピンからキリまで有り、或るものは一度宇宙を全て作り変えでもしない限りどうにも仕様の無いものであるが、或るものは今直ぐにでもどうにか出来るものだったりする。これらの障害のスケールの大きさと挫折感の大きさは必ずしも正比例する訳ではないが、少なくともその根源まで遡ってそれを改変することが可能かどうかを問う場面に於ては、それがより深刻なものであればある程、無力感や徒労感を感じ取る機会は多くなるとは言える。

 ひとつ虫歯を例に取ってみよう。虫歯はその即物的な苦痛に於て被害者の心に然程の精神性や象徴性を認めず、古来虫歯について詠んだり歌ったりした詩人や音楽家が略見受けられないことからしても、芸術家達の創作意欲をそそるものではない以上、或る程度まで万人に共通可能な普遍的なこの世の欠点であると言えるだろう。夢想家が快適に生を送ることを妨げるこの腹立たしい障壁を排除するにはどうしたら良いだろうか。性能の良い麻酔薬が有ればどうだろう。確かに痛みは退くが一時的な措置でしかなく、根本的な解決には程遠い。歯医者で患部を削り取って貰い、キャップを冠せて貰えばどうだろう。確かにその痛みを取り除くことは出来るが、それは己が肉体を故意に傷付け、生まれ持っての財産の一部と引き換えにしての話であり、しかもまた新しく虫歯が出来ないと云う保証は無い。毎食後に歯磨きをしたらどうだろう。実に面倒であるし、実行出来ない場合も多々有ろう。そしてこれも100%保証が有る訳ではない。口の中にナノマシンか何かを常駐させておいて、常に歯が清潔に保たれているようにしたらどうだろう。それは効果的かも知れないが、絶えず虫歯と闘い続けなければならないと云う事態そのものは尚も残る。では歯が無くても栄養を摂取することが可能な、詰まり歯の不要な生物に進化するか、機械的な補助を用いてそうしたことを可能にするかして、そもそも歯を無くしてしまったらどうだろう―――想像は尚も続く………。だが私がここで言いたいのは、様々な障壁のレベルに応じて対策もまた様々に存在し、その不可能性の度合いも上下すると云うことである。或るものは直ぐには改変不可能だが、或るものは可能である。

 机の前に凝っと座って黙考しているだけの者には縁の薄い、行為することによって初めて手に入る健全さと云うものが在る。ここで云う行為とは即ち現実への働き掛け、手の届く改変可能な領域に向かって手を差し伸ばし、実際に具体的に介入し、自ら新しい流れを形作ることである。健全さは現実と夢想とのバランスの取り方に依っている。行為することによって夢想家は現実の実感、確認することの出来る手応えを得るのであり、自らの内部にぽっかりと口を開けた巨大な深淵に落ち込んで抜け出せなくなる事態を回避する為の足掛かりなり立脚点なりを得るのである。夢想家は足が底に届かない海でずっと立ち泳ぎをしている様なものである。中には、潮の流れを読み、自らが本来持っている浮力に気が付いて悠然と泳ぎ回ることの出来る者も居る。が、大抵は孤立し、手助けも無く、自らの力のみで溺れないように浮かせ続けなければならないのだと云う一心から懸命になって藻掻き続けた挙げ句に、やがて力尽きてぶくぶくと沈黙の底へと沈んで行く。行為するとはそこで徒らに自らの夢想の力のみに頼るのではなく、何とか自分を支える力を外部に求め、ふわふわぷかぷかと些か不安定で頼り無い風情ではあるが、以前とは違って何処かへ進んで行くと云う感覚を得る為の方法である。夢想にフィードバックと云う餌を与えること───結果としてそれが空しい幻想に終わったり、愚かしい妄想であることが明らかになったとしてもだ───それこそが夢想家が正気を繋ぐ希望であり、自らの重みに圧し潰されて自滅しない為の、一般的に望み得る最も確実な方途なのだ。

 ───尤も、今言ったこと全てを全くの綺麗事、夢想の力を過小評価した凡庸な頭脳に精々辿り着けるであろう最も増しな結論と見做したがる気分の時も確かに存在していて、そう云う時には健全さなど知ったことか、と、自分を容れようとしない現実に対して背を向けたくなる私が、無力で無能な一夢想家から積極的な理想家、活動家、改革者、推進者へと身を転じる瞬間は、残念乍ら余りにも短い。上に挙げた様なことは専ら自分の為に自らを鼓舞し慰める為に言ったのである。情け無いだろうか? だろうな。だが自らの無力無能にしがみついて呪詛の言葉を吐き連ねることばかりしている不幸な僻み屋に、余り多くを期待して貰っても困るのだ。
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