1498.
日常の一寸した気の緩む瞬間、例えば夕食或いは一日の終わりの食事を始めようと云う時とか、これから湯船に浸かろうと云う時とか、腹を抱えて便座に腰を下ろした時とか、のそのそとベッドから這い出ようとしている時とかに不意に内から込み上げて来るあの屈辱と悲惨の感覚、そしてその発生の頻繁さを理解して貰うにはどうやら一般的には解説が必要らしいのだが、こんな、日々を繋げる為だけの営為を、自分は生まれてから何千回、何万回も繰り返して来なければならなかったし、またこれから死ぬまで下手をすると更に何千回、何万回も繰り返して行かなければならないのだと云う事実がどれだけの徒労感を私に齎すかと云うことを、考えてもみて欲しい。一個の精神としての私はそうした延々と果ての無い肉体の苦役に対しては反撥を覚えざるを得ない! 人権の思想の持つ可能性、即ち、人間はあらゆる基本的な恐怖と隷属から解放され、新たな自由を希求し、追求する権利を持つと云うことを支持する立場からすれば、そうした作業の含意する単調さは、到底容認し難いものなのである。そうしたことどもの中にもささやかな喜びと幸せと、有り体に言えば快楽を見出す人々が居ることを、私が失念しているとは思わないで欲しい。寧ろより普遍的にそうしたことどもの中にも人生の妙味は隠されていると云う事実が有ったればこそ、より一層屈辱は増し、悲惨さは極まるのである。


1499.
知の快楽の神髄は知の過程にこそ在る。だからこそ世に幾億の書が積まれていようとも、それを読んだだけで知識欲に目覚める者が斯くも少なく、また周囲の理解も得られていないのである。書かれたことどもはどれだけ巧みに書かれていたとしても、既に終了した、少なくとも一段落した探究の記録でしかない。どれだけ素晴らしい定理や公式が発見され、或いは発明されようとも、それを導き出す為の苦闘を共有なり追体験なり何等かの形で経験しないことには、その素晴らしさはどれだけそこに置いておいたとしても死物の儘に留まり続ける。終点に着いてしまった後で安全地点から結果だけを振り返ってみるだけでは全く不十分であるし、逆に出発点から足を踏み出さずに只前方を呆っと眺めているだけでも駄目である。多少は知られてはいるが未だ完全には知られていない知、知と非知との境界の淀みの上を蠢く、形を取り始めてはいるが決して確定されている訳ではない淡い知こそが、無上の快楽を齎し、我々をそれ無しでは生きて行けない様にするのである。


1500.
「汝の欲せざるところを隣人に施す勿れ」「汝の欲するところを隣人に施せ」「隣人に対するに、己に対するが如くにせよ」―――ヴァリエーションは様々だが、要するに欲望や欲求の主体として自分と「隣人」とを同列に置くことを要求する戒律は、多少手を加えた形で今日尚高く掲げておく必要が有る。曰く、「他者に対して適応される法や原則は、自らに対しても適用せよ、または適用されるべきであることを忘れず、必ず実行せよ」―――このことは無論キリスト教徒についてのみ当て嵌まる訳ではなく、法の支配を期待するあらゆる人々について言えることである。他者を自分と同等の権利を有する主体であると認め、また己と他者との関係を拘束する法を、普遍的に、対称的に適用されるものとして認めると云う、この想像力を要する課題は、我々が無法地帯で暮らす事を潔しとし、また寧ろそれを望むのでない限り、万人が負わなければならないものである。法治国家や、法治諸国家によって形成される法治国際社会に於て、法の恣意的な適用を禁じ、自らの想像力に勝手な都合の良い空白部分を作らないことは、今日の政治と教育に於ける喫緊の至上命題であり、欺瞞や誤魔化し無しに負わねばならぬ絶対の義務である。………とまぁ、そもそもこんなことをわざわざ改めて言わねばならないこと自体、どうかしているのだが! 今日、こうした種類の想像力の欠如は全く犯罪的な果実を生み落としており、無知と怠惰に因るのでなければいっそ悪意に因るものと断定したいところである。
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