1490.
人間的自由は、現実の空間かゼノンの逆理の様には恐らく無限に分割することは出来ないと云うこと以上に、微分が不可能である。それはその意味するところが要求する文脈のレベルに応じて、突然創発的に一纏まりのゲシュタルトとして現れるのであり、下位のレベルの自由を積み上げて上位のレベルの自由を導き出すと云う作業は、全く不可能とまでは言わないが(どんなホラーキーの内部にも橋を架け渡すことは不可能ではない。人間の想像力はやろうと思えばどんなアクロバットでも演じてみせるのである。但しその芸当が喝采を博するかは全く保証の限りではないのだが!)、酷く喜劇染みた、何かのナンセンスな戯画の様な外観を呈することであろう。


1491.
己の深部を底の底まで測れていると思い込んでいる人間は、得てして深部そのものの存在にすら気付いていないものである。


1492.
成る程、人を支配するのに、頭の中を支配する以上の巧い手は無い。どんなに自分達が疎外されていようと、それが世の常態なのだと幼い頃から徹底して叩き込まれていれば、そもそもそこに何か文句を言うべき事態が出来していることになど思い至ろう筈も無い。


1493.
恐怖の中に見える瞳に私は怯える。私の傲慢と思い上がりが生む稚拙な欺瞞と目眩ましの幻想を、その眼差しはしっかりと捉えている。如何なる言い訳でもお見通しだと言わんばかりに、それは苦しい現実の認識を強制し、自分が存在する限りは何処にも逃げ場など無いのだと云う事実を、無言の裡に断言する。意識とは即ち断罪を求める声である。こっそりと隠された都合の悪い真実を暴き立てて止まぬ鉄の拳である。それに苛まれる為には別にわざわざ犯罪に手を染めるには及ばない。他ならぬ平凡なこの日常そのものが虚偽の重ね着によってようやっとその平穏な外観を保っているのであり、幾つもの無視や回避や歪曲や抑圧や軽視や合理化によって成り立っている以上、私は既に被告席に立っているのであり、四六時中機会を捉えては裁かれるのをびくびくと震え乍ら待っている偽善者であり、偽証者である。目を覚ませ、目を開けろと呼ばわる恐ろしい声は常に私の傍に控えてその出番を待っているのであり、浅知恵の作り出した薄皮をひん捲ってその下に潜むものを白日の下に曝してやろうと、手ぐすね引いて舌舐め擦りしているのである。堕落の自覚はそこに在る。それ故に進歩の種もまたそこに在る。だがその衝撃に耐え切れず思わずふらつき、倒れてしまったとしても、私を助け起こそうと手を差し伸べてくれる者は誰も居ない。身の凍る様な孤独の裡に私は自力で起き上がり、膝の埃を払い、気を取り直して(こうべ )を上げねばならない。深く息を吸い、真闇の深淵を昂然と覗き返さねばならない。絶叫する沈黙に対して耳を塞がず、情け容赦無く糾弾する検察に向かって、堂々と罪を認めねばならない。その恐怖、孤絶感、そして羞恥、未知の展開を前にして私は不安に戦き、尻込みし、考え付くありとあらゆる口実を掴まえては何とかそれに縋って立ち止まろうとする。だが幾らこちらで拒絶しようとしても怯むことの無い、既に一度鳥羽口を得てしまった変化の荒波は、立ち竦む私の足下を掬い、防御と抵抗の構えを見せて後ずさる私を冷ややかに見下ろし、勝手に約束されていたあらゆる安寧を打ち破り、事の真相に至らんと、抗い得ぬその強力な(かいな )を伸ばして来る………。認識は戦争である。果てることの無い闘争である。意識とは―――少なくとも、良心有る意識とは、即ち私の挫折の謂いであり、精神とはその本質からして転倒と贖罪と脱皮を運命付けられている私の在り方に他ならない。
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