1475.
この時代にとって不幸なことに、我々の想像力と我々の現実とは、疾うに幸福な結婚生活を諦めてしまって離婚に踏み切り、今更また苦労して散々疲れ果てた挙げ句、長期に亘る泥仕合を繰り広げる位ならと、各々安易な一夜の愛人達を拵えて自らを慰めている。良いも悪いも無い、それが既定の先立つ事実として、現実は想像力がボロボロと自分を取り零してしまうのを嘲笑い、想像力は現実が余りにひねくれて不条理な為に取り残されてしまった己が身の不運を嘆くのである。それ故曲がりなりにも何とか遣り繰りして結婚生活を送っている者への態度は自然と屈折したものにならざるを得ず、嫉妬や無視ならばまだ良い方で、場合に依っては積極的な敵視や蔑視にまで発展することも珍しいことではない。我々は噛み合ない時代に生まれ付いている。


1476.
激しい肉体的苦痛の最中に在っては、果たして一篇の高尚な詩が何になろう。だが、だからと云って、言葉より苦痛の方が優れていると云う訳では断じてない!


1477.
狭隘な縄張り根性に自らの知性と想像力を絞り上げられて嬉々としている馬鹿共が口にする「現実主義」とは、殆どの場合退歩の安易さに対する体の良い(と連中は考えているだろうが)言い訳である。我々は妥協の為に進むのではない、妥協を乗り越えた地平を目指して進むのである。


1478.
法や法治主義に対する敬意を共有出来ない相手とは、私は全く談笑する気には成れないのだが、私が連中に対して侮蔑と寒気をしか覚えないからと云って、連中を殴りたいなどとは露程も思わない(少なくとも私の近辺に直接手を伸ばして来ない間は)。私が連中に望むことは唯ひとつ、回れ右して一刻も早く人類の歴史から御退場願うことだ。


1479.
実にそれらしい短歌や俳句やその類いを書いている人々に対して私が反射的に抱いてしまう引け目は、恐らく、千何百年と云う長い歴史を持つ伝統に対して、自分が余りにも敬意を払わなさ過ぎることへの「申し訳無さ」であるが、同時に反撥する気持ちも当然有って、何故二十一世紀の現代社会に生きる自分が、もののあはれだのワビだのサビだの、疾うの昔に死に絶えてしまった一部の階級の高踏生活から生まれた感受性を共有せねばならぬのか、或いは何故日々どうでも良い様な日常を送っている凡百の世間様と私が同じ様に物事を感じなければならぬのか、断固拒絶したくもあるのだ。今時ハイドンの「びっくり」で驚いて目を覚ましたり、ベートーヴェンの第九を聞いて「天井が落ちて来そうな」程でかい音だと思う人間が居ない様に、適当な時空を外れた感興は悉く、その第一義的な衝撃力を失って骨董品と化す運命に在る。新しい文脈には新しい意味が生まれるのはもう自動的な当然の理ではあるが、だからと云って古い水でも新しい器に注いでいれば大丈夫だなどと思うのはとんだ知的怠惰である。永く淀むぬかるみに浸かって、自分が他の「日本人」と変わらななどと云うことをいちいち確認する作業を延々繰り返すだけの行為など、私は真っ平御免である。世界とは、風景とは、心とは、もっと様々な方向に向かって自由に開かれているべきであり、その為には感じるだけではなく考えることを鍛え上げることを躊躇うべきではない。我々は古人とは違うのであり、違っているべきである。そこに何等の葛藤も対立も見出さぬ人間は、自らの自己に対する誠実さと自尊心を欠いているのであり、徒らな懐古趣味の中にだらだらと無為なモラトリアムを続けていて一向に恥じることの無い人ならざる人、曖昧で境界も定かならぬ不気味なことのはの世界に埋没し切って、その外に在るものや自己について省みることの無い旧文化の遺物、個我の無いうつしよの世間を構成するパズルのピースに過ぎない。
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