1466.
凡そ実務の面に於ては、私は無能の極みとでも云うべき存在である。書斎から一歩でも出て人の世の中に立ち混じって行こうものなら、私は見苦しく厄介なお荷物となることを免れ得ない。しかしそんな私でも何とか食って行かなくてはならない。必然的に私は筋違いの孤憤ばかりを募らせて行くことになる訳だが、真に天の配剤の斯くも良い加減なることを思うと、思わず何もかも呪いたくなってしまうのも仕方の無いことではないだろうか。


1467.
実務、即ち、移動し続ける時間の中で、殆どの場合他の人間達の中に立ち混じって作業することは、基本的に私の性分に合わない。私がその中で生きている時間は比較的長大な単位で極くゆっくりと動いているので、始終一分一秒を争わなければならない生き方などと云うものは、凡そ正気の沙汰とは思えない。


1468.
エコだの省エネだの騒いでみても、ヴェブレンの本を読み返してみるまでもなく、この人間社会は呆れ返るばかりの金も手間隙も掛かる虚栄に満ち満ちている。全く無駄で余計なことにどれだけ金と時間と労力を注ぎ込めるか、それが過度に持てる者の略全てに共通する強迫観念であり、本来他に向けられていて然るべきエネルギーを片端から浪費する恐るべき余剰生産制度である。意義が認められればそこに価値が生まれる。価値が生まれればそこに価格が生まれる。そしてそうやって生み出された価格が新たな労働市場を生み、()いては新たな搾取の形態を開拓するのである。残念なことに、基本的生活を支える生産体制が整ったとしても、万人が豊かになる訳ではない。富める者は更に富むことを望み、その模倣と流行から生まれる消費のヒエラルキーが、破局と解放を同時に引き延ばすのである。


1469.
静かで慢性的な恐怖の中に長期間身を浸していると、自分の精神が凡そ揺さぶりを掛けられ、つつかれ、弄繰られ、回転させられ、こそげ取られて削ぎ落とされボロボロに崩されて行くと云う経験であり得たのか忘れてしまう。悲惨も零落も挫折も腐敗も、長い時間を経る裡に何であろうと「日常」へと取り込まれて行き、その衝撃を失って自明視される自然な風景の一部と化す。苦痛も屈辱も、外部から突然襲って来る侵入者ではなくなり、却って我々の何部を食らい尽くして、その空白を占有する様になる。不調和も偏在の度が過ぎると何時しかそれ自身完結した秩序の一部と成り、不合理も理不尽も常態化することによって自らの権利を主張し始める。我々はどう仕様も無く没落する。自分達が食い荒らされて行くのが解ってい乍ら、絶えず墜落して行く。そしてやがて全てが不分明の内に沈み込み、踠いて這い上がろうとしても、そもそも何処に崖が在ったのか、いやそもそも崖が存在していたのかどうかさえ思い出せない様になる。
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