1443.
様々な種類の文体を自在に操る文章職人達のことは知っている。確かに大したものだとは思う。が、自分で彼等の技術を習得したいかと云うとそうではない。私は筆を使って現実を描き取ったり模倣したりしたい訳ではなく、現実を一から創り出したいのだからだ。写実的な技巧は、確かに使い様に依っては非常に素晴らしい道具と成ることは有る。が、私自身の作品製作と云う観点からするならば、実のところ大して興味は無い。


1444.
満足した奴隷と不満足で鬱憤の溜まった奴隷と、どちらが幸福かと問われればそれは勿論前者の方だろう。だが私は前者には成りたくない。と云うよりも、気付いてしまった瞬間から、私は後者にしか成れない。


1445.
私は真実を語ると同時に嘘を語ることが出来る。と云うよりも、どんな真実を語ろうとも、それは潜在的にせよ健在的にせよ別の面では嘘であるのであり、語られる世界に対する未だ語られざる世界の豊穣さが、裏切り無しに何かを語ることを許さないのだ。逆にまた如何なる嘘であろうともそれは真実であり得る。可能的コンテクストの多元性は否定と排除による真実を獲得をもまた裏切るのである。人が無際限の想像力を持ち合わせている限り、その状況を根本的に「解決」する方法は存在しない。


1446.
全く異なるコンテクストから、全く異なる視点で対象の第一義的な意味を置換してしまうことを仮に「脱極」と呼ぼう。そして現にそうした二重性・多重性を顕在化させている性質を「顕在的脱極性」、顕在化しておらず、脱極可能性を内包させているだけの場合は「潜在的脱極性」と呼ぼう。この脱極性は少なくとも言語化されたあらゆる言明に対して認められ、数学の様に殆ど完全な自律性を有している体系でさえ、未来の発見に対して開かれていると云う意味では、脱極性を有している。脱極性とは没落と同時に解放の原理であり、自由と同時に不完全性の証言である。


1447.
生活が法悦を蝕む。塵芥に塗れれば塗れる程、精神は鈍磨して行く。俗世間との交渉に忙殺されてしまえば、内なる星空などその存在すら忘れ去られてしまう。食べて行くことは死ぬことである。他人とは私を殺す者のことである。身過ぎ世過ぎは思考の自殺である。明日のことを思い煩っている限りは自由は無い。目の前のものに溺れている限りは永遠など見える筈も無い。
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