1440.
仮令木の枝が窓を突き破って入って来たとしても、「窓の外の嵐」は「窓の外の嵐」であり続ける―――あらゆる行為に飽きた精神と云うものはそうしたものだ。これも、それも、遅かれ早かれ何れは没落する―――そう思い乍ら、どうして何かに100%没入することなど出来るだろう。音楽も、様々な形式で語られる物語も、驚くべき視野を開かせてくれる理論も、その魔力を失うことの何と素早く、また容易いことか! 精々のところものを書くと云う行為に於ては、私は最も自らに正直に、そして最も自分が望む仕方で欺瞞的でいられるが、それとても分裂の芽がそれ自体の胎内に仕込まれている以上、最も忘却的でいられる仮染めの一時凌ぎであると云うに過ぎない。ものを食べたり眠ったりということにすら少なからずうんざりしている者にとって、怪我をしたり死につつあったりすることが果たして一体どれだけの意味を持つことが出来ると云うのだろう? 私の肉体の無器用さと虚栄心との相性の悪さが拍車を掛け、この「飽きる」と云う事態(動詞で表現されてはいるが、これは私の意志が何処かで介在していようといまいと、起きる時には起きるものである)と、私は一生付き合って行かねばならない………これ以上に、日々の営みを送る意欲を減退させ、私を心底げんなりさせられる事実が有ろうか?


1441.
恐怖達とは長い付き合いになるが、今だに、今日や明日の暮らしへの思い煩いから来る恐怖とは友人には成れない。私が自ら心を開き、且つ知りたいと思う恐怖は、過去か、或いは永遠に属している。


1442.
私にはその儘大学に留まって研究職を目指すと云う道だって有ったのではないかと君は言うが、その選択肢を選ばなかったことについては一片の後悔も未練も無い。ひとつには、勿論愚劣な政府の方針と消費サービス化の一途を辿る諸大学の風潮に未来の展望を全く見出せなかったこと、もうひとつには、日本の学会の実際の偏狭さと派閥性に、正直言って些か幻滅してげんなりしていたことが、その理由だ。だがもうひとつ一番大きな理由が有って、要するに私は他人の為に、詰まりは身過ぎ世過ぎの方便として、自分自身にすらよく分かっていない自分の頭の中を整理して、他人に理解出来る様な、理解し易い形に鋳直して外的に提示し、さもそれが自分の思想であるかの様に一枚板の仮面を被ることが、嫌で嫌で堪らなかったのだ。確かに、私は体系に憧れていたし、今だって憧れている。だがひとつの局面を選択した場合、そこで他の局面が捨てられることになるのであって、その酷い裏切り行為の上に私の「実績」が積まれて行くのかと思うと、そんな売笑婦の様な真似をする位なら、自分が今まで学んで来たこととは全く縁も所縁も無い職場で頭を下げたり愛想笑いを作ったりする方がまだ増しだとさえ思えてならなかったのだ(その選択肢もまた実際にはどれだけ馬鹿気たものなのか、後になって嫌と云う程知ることになった訳だが)。  大学在学当時、深い見識と洞察に支えられた体系を持った先生が居て、私は彼のバッサリと物事を切って捨てるその明快な遣り口に毎回の様に「このファシスト野郎奴!」と口の中で呟き乍らも、何年もその教授の講義を受け続けた。そこには確かにひとつの見事な生き方が、十分な敬意を払うに値する生きられた思想が在った。だが私は彼の様には成れないし、彼の様な生き方は出来ない。別に分裂と混乱が好きだ、と云う訳ではない。だがそれこそが私が現にそうある在り方であって、それを否定していては、私は苦しいばかりなのだ。私は裏切りが許せないし、何かを「専門家」として言表してしまうことによって自分が狭隘な存在に貶められてしまうことに我慢がならない。無論、常識的に考えれば、私はもっと謙虚さを学ぶか妥協することを覚えるべきなのだろう。そうしなければ何も始めることは出来ないし、何も為すことは出来ない………だがそんなことは糞食らえだ! 私は私でないことが不快で堪らないし、顔も知らない何処かの誰かの為に自分自身を規定し直すのなんて真っ平なのだ。学生も、学会も、後世の人々も、所詮は他人の集まりである。私以外の誰もが、私の人生と共に歩んではくれない。実に不様で傲慢だと自分でも思う。だが、この不遜な混迷を措いて他に私と云うものは存在していないのであり、非存在より存在を選んでしまうのは、あらゆる存在物の性と云うものである………言い訳染みているって? 無論、これは言い訳だ。だが他にどう言い様が有ると云うのか?
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