1435.
法治国家に住む者として、無論私は一人の公民としての権利と責務とを自覚していはいる。だが私の社会参画は専ら書斎の中からのみ行われ、所謂「世の中に出て」積極的に働き続けることは先ず皆無に等しい。これは実務的な事柄に対する私の長年の無関心(例えば、或る人の言葉遣いが偶々他の人の気に入るか入らないかが、その人が一体何を為すかと云うことにどれだけ影響を及ぼすものだろうと言うのだろう)と、有り余る無駄に対する反感(例えば、その生まれ以外に何の力も持ち合わせていない独りの人間の死亡に合わせて、何故公的機関で通用する暦の数え方をいちいち変えねばならないのだろう)に裏打ちされた無能力が、私が人中へ出てあれやこれやの細々としたことにまで目を配ることを困難にしているからである。私が政治――特に行政よりも司法や立法に関心を持つのは、そこでは比較的明確なルールが定まっているからであり、何が正しくて何が正しくないか、いちいち誰それの顔色を窺わずとも判断出来るからである。人と人々との関係ではなく理念か(少なくとも建前上は)その場を支配しているからそこ私はそこでの問題の解決に快楽を感じるのであり、法の名の下に人の生が理路整然と最大公約数的に規定されるその単純さこそが、私を惹き付けて止まないのである。


1436.
実生活に於ける私の無能力さ加減と余りの不様さについては、十分に自覚してはいるのだ。だからと云ってそれで自らの生き方在り方を「改善」しようなどと殊勝なことを考える程の俗物だったら、そもそもここまで酷いことにはならなかっただろう。要するに私と云う人間は今の世の中と云う奴と相性が悪いのだ。無理に折り合いを付けようとしたら、ぽきりと折れるのはこちらの方に決まっている。


1437.
「何故」と云う問いに全く答えることが出来ない場合でも、「如何に」と云う問いに答えることは出来る。これは堕落だろうか? ならば「如何に」と云う問いに答えることが出来ていないのに「何故」と云う問いには答えが用意されていると云うのは、怠惰の結果なのだろうか? 少なくとも次のことは言えるだろう。知を、「説明知」をと「遂行知」とに別けるならば、人によって生きられると云うその一事に於て、「如何に」とは説明知的であり、「何故」とは遂行知的である。この遂行知を説明知によって代替する、言い換えれば、本来説明知であるところのものを遂行知化しようとする所には必ず、我々の生の意味を空疎化し、野蛮へと向かわせる無思慮で無反省な暴力が潜んでいる。


1438.
なまじっかな自尊心などと云うものが無ければ、こんな腐った泥沼の底を這い擦り回る虫の様な生活をしなくて済むのに(尤も、本物の虫は自尊心など持ってはいないだろうが)。


1439.
私は追い風を受ければ調子に乗って余計なことまでやらかし、逆風に吹かれればとことんぺしゃんこになって何も出来なくなるタイプの人間だが、今私に吹いている逆風は、生活の為の、食べて行く為の必要として、実務的な細々とした――私としては本当にどうでも良い――様々の事柄に神経を使わなければならないと云うことだ。ローカルなルールに基付く雑多な行動指針の細目は、シシュポスに与えられた岩の如く、心底私をうんざりさせられる。明日のパンのことについて思い煩わなければならなくなった途端、人間は萎縮する。遙かなる天の彼方を見詰めることも出来る目をあれやこれやの目の前のことの表面にばかり注いでいると、人間は何処までも詰まらない生き物に成って行く。
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