1399.
別に幸せにはなりたくない。だが、諸々の欠乏によって自分の夢想の自足性を強制的に破られることは絶対に御免被りたい。


1400.
ささやかな人権は、金で捨てさせることが出来る。重大な人権は、やはり金で捨てさせることが出来る。大した文明だ。


1401.
昨今では支払い、乃至支払いへの期待によって、誰でも簡単に奴隷を持つことが出来る。その場を繋いでいるのがたった十円だとしても関係無い(実際に金銭の遣り取りが行われるかどうかが問題とならない場合も多い)。そこで適切な優劣関係が成立してさえいれば、誰もが一時的に実用性の高低に関わらず一時的に他人からのサーヴィスを受けることが出来る。個々人の紐帯が希薄な都市圏に於ける程、その傾向は顕著で、消費と云う形態を基軸とした、封建社会のものと比べると可成り可塑性の高い身分制度が、至る所で現出したり解消したりしている。消費とは自己誇示であり、金を媒介として力の感覚とその所産を享受する為の簡易差別制度である。


1402.
ぐだぐだなまでによく見知った下らない怖れに、明日もまた付き合わねばならんのか! 万物の霊長と言っても所詮その程度なのであれば、尊厳だの希望だのと言った話がまともに出来る様になるまでには果たして一体どれだけ待たねばならぬのだろうか。


1403.
「個性」など糞食らえだ! 身長、体重、血液型、星座、出身地、学歴、「趣味」、「性格」、「嗜好」、etc、etc………。そんなもので一体私の何が分かると云うのだ。そんなものは私と他人をごっちゃにしない為の単なる徴表、他人が居ない場では全く不要になる安っぽい上っ皮だけのラベルに過ぎない。少数の極く親しい者以外に対して私が求めるのは一定の規範に従って、逸脱して私を煩わしてくれるなと云うことであり、一般化された公民に留まって余計な差し出口を控えてくれと云うことである。私が求めるのは普遍化された準-法的関係であり、いちいちどうでも良い様な差異化を必要とするタイプの「個人」などと云う代物はお呼びではないのだ。顔も名前も持たないコモン・マンは、近代の実に偉大で便利な発明品である。便利ならばどうしてそれを使える場面で使わないでおくことがあろうか?


1404.
私が他人を気遣い、或いはそのポーズを見せるのは、確かに同情や共感に基付く博愛心に因らないこともないのだが、第一には何よりもその方が楽だからである。他人に無関心であることをあからさまにする態度を場面を選ばずに取り続けるのは、力有るものでないと仲々出来ることではない。他人の目を気にする必要が無い位私が独立性を手に入れたら、私はもっと冷淡な人間の仮面を露にすることだろう。私がこの生温い互恵性の輪の中に身を置いているのは、要らぬ波風を立てて人間社会のごたごたに巻き込まれたくないからであり。そこから個別的な関係を結ばねばならなくなるのが面倒だからである。詰まり、私が「好い人」であるのは、私が無力で且つ怠惰(無駄を嫌うと云う点では「功利的」とも言う)である限りに於てである。
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